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漆ひとすじ入山白翁の生涯
第一部
白翁藝道(第一期)
父、入山白翁(本名、平太郎)は新潟県白根町(白根町から白根市となり2005年に新潟市に編入されて消滅)に明治37年1月6日に生まれました。
一子で兄弟はありません。白根町は、信濃川と中ノ口川に囲まれる中州の大部分を占め、 当時から穀物のほか果樹などの農業が盛んでありました。
白根町は大凧合戦でも有名なる地で、町を流れる中ノ口川を挟み、両岸の各町内ごとにそれぞれの武将や絵文字などを描いた大凧を揚げ、上空で絡ませ、
両岸より大勢の勇士達が引き合い、ぶち切り競う壮絶なるその行事を、平太郎は子供の頃から楽しみに心待ちをしていたものでした。
その中ノ口川は江戸時代に掘られた運河で、白根町の北に向かって直進し、新潟市を還流して日本海に流れ込む川で、平太郎が幼少の頃より泳ぎ遊んだ、
切っても切れない縁ある川でもあります。
大凧合戦が始まる6月になると、天候や風向などでその日の合戦が始まる合図として、朝方花火が打ち鳴らされ、学校は休校となります。
その花火の音で勉強中の生徒達が、一斉に歓声を上げて校舎を我れ先に走り出たものと、思い出話によく語っておりました。
平太郎は白根小学校に明治43年4月に入学、大正5年3月に卒業しました。
なお、この凧合戦は江戸時代の中頃、中ノ口川の堤防改修工事の完成祝いに、白根側の人が凧を揚げたところ、対岸の西白根側に凧が落ち、
田畑を荒らした事に腹を立てた西白根側の人達が、対抗して凧を白根側に叩きつけた事が起源と伝えられております。
このため凧が相手側に向かって揚がるように工夫されており、更に改良を加え現在に至っております。米どころの新潟に位置する白根町は、当然周りは畑や田んぼ、
畔道や堀などに囲まれ、町の外輪は青々と樹木のこんもり生い茂る森や林が点在しておりました。
その環境の中で幼き頃よりこの自然と一体となり、夢中になって友と遊んでおりました。また当時の平太郎は近所の子らと共に、堀や川に魚釣りに興じ、
鮒、鯉、どじょうなどをバケツ一杯に取り、また、小川や沼で、めだか、たにし、なまず取りに、夏は蝉取りに興じ、秋は、鬼ヤンマ、しおからとんぼ、赤とんぼ、
など、昆虫採集に夢中になって田舎ならではの生活に明け暮れて育ちました。
白根町は昔から白根仏壇が有名で、漆を扱う職人達が多く住んでおりました。「塗師屋(ぬしや)」といわれる漆器を製造販売する人、塗りを専門とする人等の家も多くありました。平太郎の父も、また、漆に携わる仕事をしている人で、実に誠実な正直者であったとの事でした。
その父は作家というより、持ち前の技術を生かし、漆関係の仕事などその特技を発揮し、制作する職人肌の人でした。
依頼されたものは、より正確丁寧に完成させる手先の器用な人で、漆塗りや工芸品に至るまで、いわゆる、名人技を持つ人と言われておりました。
平太郎は幼少の頃から、当然家に常備されていた多種多様の漆や漆芸具、そして金、銀、金粉、銀粉や金箔、銀箔、顔料、砥の粉、砥ぎ出し用炭や多くの筆や刷毛類
等の中で育ちました。
その関係で全く違和感なく家の環境に溶け込んでおり、父の仕事を毎日それとなく接していただけなのですが、いつしか漆に対する興味が自然と身に付いていった
ことが窺われます。
あのとろりとした褐色の樹液から父が生み出す見事な作品の中で生活を続けて行くうちに、自然と子供心に自分でも何かを作り出したいとの創作意欲が湧き始め、
興味本位で父の仕事をただ横でじっと座って見ている日々が、生じ始めたと申します。
父は決して平太郎に手を取り教える事はなく、黙々と作業を続ける人であったそうです。そして父は職人肌の無口の人でした。
「技術は自分で会得せよ。物真似でなく自分の技を身に付けよ」との暗黙の教えの中で平太郎はただ、父の横に座って仕事を見守り続けていたそうです。
更に、その折々に「技は盗んで身に付けよ」と同じ事を何回となく重ね教えられていたとの事です。平太郎が12~13才の頃、見よう見真似で制作したものが、
既に家族を支えるほどになっていたと言う事を、父方血縁の叔父が知り合いの人達に伝えていたと申します。
平太郎は父譲りの頑張り屋で探究心、制作意欲も旺盛で、ついつい夢中になり寝食を忘れて打ち込むところなど 、実に父によく似ておりました。
幼少にして大人が驚き誉め称える作品を、同じ様な手法で制作していく内に、子供心に何か満たされぬ疑問や不満が心に溜まり出し始めたのでした。
いつの日か、父の仕事を継いだところで、こんな小さな田舎町でせいぜい近所の人々の誉め言葉や賞賛を聞いているに過ぎず、 自分本来の技がこれ以上に
熟達する事はまずないと、幼いながらもそう考える様になっていったとの事でした。
平太郎の母は信心深い人で、新潟県胎内市に存在する乙宝寺(おっぽうじ)に幾度となく通い、その都度、平太郎を連れて行くのが常でした。
736年(天平8年)創建の古刹で、境内には国指定重要文化財の三重塔や六角堂、弁天堂、観音堂、地蔵堂などが建ち並ぶ由緒ある寺であります。
乙宝寺の本尊は大日如来で薬師三尊があります。波羅門僧正が印度より釈迦左眼の舎利を持参され、行基菩薩と共に乙宝寺を建立されました。
平太郎が10歳の頃、例により母に連れられ乙宝寺参りの際、佛眼舎利宝塔の中に安置されております仏舎利(釈迦左眼の骨が収められております)の前で、
異様なる霊感を受けたと申します。
母より繰り返し聞いていた釈迦説話に心を奪われ、憧れていた平太郎がその仏舎利の前で釈迦の弟子になる事を心に誓った、と平太郎の手記に幾度となく
書き残されております。
幼少より佛心を生じ、信仰心を深めながら次々と自分の生み出す制作品の中に魂を打ち込む姿勢が、平太郎の中に徐々に育んでいきました。
15才の頃より漆の芸術を愛する心は増すばかりで、根本から学びたいと常に念じ、本格的に漆の芸術を目指して修行に入り、技術を身に付けて行こうと
決心致しました。
丁度その15才の時、漆藝術家へ小僧として入ります。その頃に「白翁浄隆居士」と言う法名を生存中に持つ祖父から、「白翁(はくおう)」の(称号)を授かりました。また、法禅哲理の識者であった祖父は、平太郎にこれからも藝術を真剣に学び、邁進する様にと諭したとの事でありました。この時から平太郎は「白翁」名を雅号とする事を決めたのでした。
大正9年より13年まで新潟市「高橋」に竹塗・変塗などの指導を受け、新たなる技術を磨き、技能を積み重ねつつ修得に励みました。朝は誰よりも早く夜遅くまで、
一心不乱に仕え、技を盗み、自分なりに工夫を加え、研究努力を重ねておりました。
前々からの考え通り、田舎や県内で留まっていたのなら、これ以上の技術を身に付けて発展する事は望めぬのではないか・・・との不安は年を重ねるにつれ蓄積しだし、物真似ではない独自の藝術を切り開き、制作して行きたいとの願望が高まっていきました。
そして遂に、両親を懇々と説得して一人東京に旅立ちます。こうと決めた意志の強さは並みのものではなかったのでした。
白翁が幼き頃から父や祖父よりよく聞いていた曹洞宗の僧・良寛がとても好きでした。諸国を行脚し生涯寺を持たず後年故郷の五合庵に隠居、俗世を離れ独自の
枯淡なる境地に生きた、良寛の生き様を子供心に何か惹かれるものを感じていたのでしょうか。
良寛はこの中ノ口川を生涯愛し、川の堤防に咲く桃の花を多くの漢詩で詠んでもおります。その様な環境の中で何処かに通じ合えるものを持っていたのでしょう。
白翁藝道(第二期)
一応の乾漆(かんしつ)造り技法を修得して大正15年に上京、親戚近くの牛込弁天町に下宿を探し、そこを本拠としていよいよ長年の夢であり、
そして永遠の目標でもあった究極の藝術へと歩み始めるのでした。
新潟市の「高橋」における小僧時代以外に専門の先生についたという記録はなく、全て暗中模索、試行錯誤の繰り返しでした。
それにより全て独学による独自の研究から出発が始まっていたのでした。
専門的な知識を得る為、各方面に求めて研究努力を重ね続け、遂に昭和3年上野東京美術学校(現 、東京芸術大学)漆工科に見事入学を果たします。
在学中も斬新なる藝術を追求、同期生と共に永遠なる藝術、文化そして美の本質、伝統の美へと、話題が尽きる事なく大いに論議し、呑み語り、
生き甲斐を感じていた時代でもありました。
白翁自身思い返せば15~16才の頃、既に従来の漆藝(しつげい)に対し、ある疑問を抱き続けていたのでした。それは「漆藝」において生地を作る専門家がいて、
下地を施す専門家、そして塗りの専門家へと渡り、完成されていきます。が、更にその上に、蒔絵を施す作家がいるという行程が、どうにも理解や納得できなかったのでした。
名を残す作家となるべきは、全て自身の手による制作でなくして何であろう・・・と、いわゆる職人芸で終わりたくなく、自分自身が全て体得し、まとめていかねばならぬとの考えのもと、実際に僅か15~16才にしては、かなりの創作品を完成させ、周囲を吃驚させた実績を持っていたのでした。
そういう意味合いの自己主張も、このとき大いに論じたとの事でした。この頃の記に「昭和3年美術学生の時は、牛込弁天町の下宿から都電に乗り上野東照宮下で
下車し、公園を抜けて学校に通っておりました。正木直彦校長のお宅は矢来町下にあり、時々対問指導を受ける。上野池之端に横山大観先生のお宅あり、
そこに竹越眞三夫君(白翁とは大の友人)が書生をしていたが、時々学校の帰りに立ち寄り色々の話を先生より聞いていた。岡倉天心先生の事など良く聞かされた。
また陶工で板谷波山先生にもよく指導を受ける。「私はずっと苦学が続いたが、上京するまで15才の時より漆藝家に入門し、一応の「漆藝」を修得していたので、自由なる創作小品は纏められていた。それら多くを日本橋三越美術部に委託していたのだが、良く売れるので私の学費は出た。珍しい創作漆藝であるというので実に良く売れた。しかも高値であった」とあります。
今までの自分の考え、行動にまだ納得のいかぬ不安を感じていた折、当時の農林大臣・山本悌二郎(ていじろう)氏の生き方に以前より尊敬と憧れを抱いていた白翁は、山本農林大臣に直接ご指導を仰ぎたく、意を決して官邸に押しかけたのでした。
秘書官より当然のごとく門前払いをされたのですが、自分の描く理念理想をとうとうと述べ、長き押し問答を繰り返し一歩も引きませんでした。
やがてその事が山本大臣の耳に入り、遂に、直接の対問が叶えられる事となったのでした。
実は、秘書官は、白翁が日参しての懇願に精も根も疲れ果て、山本大臣に直接お伺いを立てたところ、実現が叶ったのでした。
山本大臣は、秘書官から色々伝えられた事を聞き、筋の通った少し変わった人間が来たと思い、面会を許したそうです。
山本大臣は開口一番「白翁というのは君の親父の事か」と尋ねられ、白翁は即座に胸を張り「いえ、私です」との気迫ある返答をしたことが大いに大臣に気に入られ「面白い奴だ!来い」と自室に招かれました。
それ以来、木戸御免のお付き合いをさせていただく事になり、目黒五本木にあった私邸にも自由に出入り出来る様になりました。以後師として仰ぐようになり、
より奥深い藝術、そして深淵なる精神を、直接のご指導を受け続けられる様になるのでした。恩師の美術コレクションは当時としては、それは大変なもので、
中でも中国の名品が数多く占められておりました。
恩師の申されていた事は「模倣でなく己の魂で創作していく事、古来先達の残した名作に絶えず触れその魂を汲み取れ、駄作に幾ら接しても得ること無し・・・時あらば名作に常日頃接していく様に、古い最高のものを研究し、それを踏まえて己の制作に打ち込め!それで出来なければやめろ!」と非常に激しい精神教育を受けた事が、白翁の記に残されております。
白翁が常々思考すべく全ての精髄は、尊敬信頼する恩師からの直接激烈なる励ましが元となっておりました。そして自分が長年探求し続けていた藝術の基礎を新たに
見い出して行けた事に、大いなる自信を得る様になっていくのでした。
白翁が乾漆による硯に挑戦を始め出すきっかけは、恩師に連れられ犬養木堂(いぬがいぼくどう)邸を訪問した時から始まりました。
犬養木堂先生も、古今東西数多い名作品をお持ちで、その一つ一つを実際肌に直接触れさせてくださり、白翁の心は正にときめき感動しました。
その中でもひと際目に付いた石の名硯と名墨にくぎ付けになりました。将来、自分の漆藝の技を持って、漆による「漆硯」造りに是非挑戦してみたいと心に決めたと
申します。
この時以来、乾漆硯の研究にも着手、試作・失敗を重ね体験を積んでいきます。当時の記述に「乾漆造りは麻布を芯として漆を塗り堆ねつつ造ることを原点として
臨機応変、千変万化の秘術を盡くす」と記されております。
芸大在学中、美術工芸展に苦心の傑作「乾漆花瓶」を出品。その事に関連した記述があります 。
「私が美校に入った時、天平・奈良朝・鎌倉の作品群などを多数研究してみて知った事は、桧を台としてそこに下地を施し作成していくのですが、ややもすると、
外国でストーブの前などに置かれた場合、剥げたり狂ったりという事が多く出てきた事実を踏まえ、それをなくする為の研究をしていた折、一つの発見をしました。
漆は冬場、どうしても硬くなりますので火で漆を暖め使用します。その段階で漆が火に落ちてじくじくと煙を出して焼けたのですが、よく観察してみると焼ける直前で、完全に固まった結晶が出来上がった事が分かりました。その事を幾度と追求して遂に 「高温乾燥法」を捉えたのでした。摂氏200℃の熱で漆を焼きますと、
漆の中に含まれている不純物が、完全に燃焼して漆のみで固まり、その方法を用い乾漆花瓶や乾漆壺を作ったのでした」とあります。
工芸展の審査員投票で最高点になり、作品前に直立して貞明皇后をお迎えする記録も残されております。
乾漆壺制作で、一本の鉄棒より制作していく技法もある事を白翁より聞いたことがあります。 一本の鉄棒にそれぞれの太さの幾通りの藁を駆使し、硬く強く巻き、
軽く叩きながら作者の希望する壺型にと丁寧に仕上げてく。
原型が仕上がった後、表面を糊で固め、乾燥させながら上部表面を更に平らに整え、さび漆(砥の粉を水で硬く練った中に生漆を徐々に入れつつよく混ぜ合わせ、
使用する作品に合わせて濃度を調節して作った物)を壺全体にへらで延ばし乾燥を待ち、更にさび漆を全体均等に延ばしていく。
この繰り返しで壺の厚さを作り、一通りこの行程が終わった後、次の二通り何れかの方法で制作を進めていく。
一つの方法は、鉄棒が付いたまま水に浸しておくと糊が溶け、藁がばらばらに解けて乾漆だけの壺原型が出来る。
他の一つの方法は鉄棒ごと窯に入れ、焼入れし、巻いている藁を全て焼き尽くし、乾漆壺の原型を取り出すという方法である。この原型の壺の上に漆を幾度も施し、
焼入れを繰り返し、乾漆壺を完成していく。そしてよく墨研ぎをした後その表面に草花や模様を色彩漆で描き、ある時は金・銀を使用して仕上げ更に焼き入れ乾燥後、砥ぎ出して完成させる。
美校3年当時の作品の「乾漆盆」は、横山大観先生が愛蔵品とされました。
昭和7年、美術協会展に出品し入選を果たしました。
白翁の記で「美校4年の夏、学校の休みを利用して数点の創作壺などを持参して、学費に替えたいと板谷波山先生に相談すると、快く長岡の井口庄蔵氏と山口健蔵氏と目黒十郎氏の3人にご紹介くださる紹介状を頂く。それを持参して長岡駅に向かう」と記されてあります。
当時学資に苦労し、自作を納める為に先生方にお願いしておりました。
昭和8年、美術学校漆工科首席にて卒業。卒業制作作品は最高点にて文部省買い上げとなります 。
この頃、恩師より、当時の廣田内閣で外務大臣でありました有田八郎先生(恩師の実弟) を引き合わされ、以来、有田先生からも絶大の信頼を頂き、個人秘書として
先生の身辺に絶えず影の様に付き添う事が多くなります。
有田先生のご縁が白翁藝術に花を咲かせていくのです。
記述の中に白翁の信条である「藝術の根本精神は人に在り、創作は歴史に挑戦であり、秀れたる独創の藝術で勝負する」の銘に有田先生大いに共鳴さると記されてあります。白翁三人の子息の名前全て有田先生が名付け親となっております。
白翁の斬新なる作品類(金胎乾漆屏風(きんたいかんしつびょうぶ)、乾漆のみによる屏風、宝石箪笥(たんす)、棗(なつめ)類、乾漆花瓶)は 有田先生ご推薦で
芦屋や京都方面など、関西の政財界の人達や美術コレクターに紹介され、次々納まって行きましたのはこの頃であります。
有田先生は白翁初期の作で刻漆文・衝立(ついたて)「春秋の意」を所蔵されました。この作品の表は満開の梅図、裏は画面一杯に赤や黄色に色づく大胆なる構図を持つ紅葉図です。(曲尺・高さ5尺・幅4尺)また他の多くの作品も所蔵されました。
特に白翁苦心の宝石箪笥(総梨子地金銀菊高蒔絵(そうなしじきんぎんきくたかまきえ))は当時としては本格的最高漆藝により檜(ひのき)良材を素地として
総布着せ下地25回を施し、他の職人の手に頼らず全てが作者の手によるものでありました。
綿布で大成功を収めました京都の大野木秀次郎氏(当時の国務大臣)は、高価な屏風や宝石箪笥、蒔絵硯箱などを、あれと此れとそっちを貰う・・・と数々の作品類を一度にお買い上げになられ、当時は正にそのような世の中であったそうです。
その屏風は現在【京都洛東迎賓館】に納められております。
『京都洛東迎賓館』は昭和14年建造。かつて、吉田茂内閣の国務大臣を務めた「大野木秀次郎」の屋敷であり、数多くの著名人が京都に訪れた際に、
迎賓館として集った場所でもあります。(京都洛東迎賓館ホームページより引用)
この昭和8年には、中野江古田にありました白翁のアトリエに、有田先生が護衛を数人伴い、白翁の新作が完成する度に奥様と共に鑑賞に通って来られました。
その当時の写真類が残されておりますが、完成された新作の前に着物姿の有田先生と、その左側に安子夫人と長男の圭輔氏そして白翁とが座る写真が残されております。圭輔氏は後に国際協力事業団総裁になられました。
この頃、白翁の藝術意欲は最高を極め、更に探究心を深めていきました。
有田先生の肝入りで白翁作品頒布会を持った時、米内光政氏(第37代内閣総理大臣)、竹越与三郎氏(政治家)、石橋湛山氏(のちの内閣総理大臣)、
渋沢敬三氏(第16代日本銀行総裁) 、石坂泰三氏(のちの経団連会長)、など政財界の錚々たるメンバーが名を連ねておりました。
白翁の「書」に関する事も記さねばなりません。専門の先生についた経験はないのですが、暇ある毎に硯に向かい墨を磨り、姿勢を正し、書や墨絵を黙々と
和紙に書き続けている姿を子供たちは、幼い頃より絶えず見ておりましたが、その数たるや膨大となり、全て次期制作に入る白翁作品の原点となっていくのでした。
書体は規格が決められた書家の文字でなく、自由奔放の洒脱で伸び伸びとした書であり、愛好家に多くの書や墨絵の作品が納まる様になりました。
全てを自らの手により完成させる事を常とする白翁は、この頃、遂に筆作り(漆で絵模様などを描き、金や銀などの金属粉や色粉を撒きつけて付着させ磨く、
いわゆる蒔絵に使用する筆)に着手する事となります。
粘着力の強い漆で細く絵模様や線を描いていくには、当時市販されている筆では、どうしても自分の納得する作品が出来ませんでした。
それらの筆は、粘りのある漆を使用する為、筆を下ろした時に一時的に筆先が寝てしまうので、漆には不適と判断して全てを処分し、
ぴんと元へ筆先の跳ね返る弾力性に富んだネズミの鼻ひげに着目したのでした。
自宅にてネズミを飼い、その鼻ひげを用いて、目的の作品に合わせて筆を作ろうと考え始めるのでした。勿論、妻からの抗議はあるものの、白翁の耳には全くの素通りでした。
「野ネズミを捕獲しても餌を絶えず漁っていたので、髭先が二つに分かれている場合が多く、筆には使用出来ぬと判断し、餌を捕獲する必要のない自宅飼いとして、
餌を十分に与えて髭先の良きものから筆制作を研究していた」と聞いた事があります。
白翁藝道(第三期)
古代から現代に至る漆藝術の名作を学び、研究を重ねてこれを踏まえ、新しい白翁藝術へと築いていこうとするその意欲が、昭和9年朝鮮楽浪文化研究・楽浪発掘調査の為に渡鮮します。2,000年以前の漆芸術品の秀れた数々が、不変の姿で発見された奏漢時代の遺品、楽浪の発掘及び古代漆藝の研究にと着手が始まりました。
「発掘物の中で変化のなかったものが、金と漆のみであったという事実に強く心が動かされた。二千年以上も地下に埋もれ、地熱に耐え廃退する事なく漆工藝品は、
なお、不変の美しさを保つ、その漆の生命力に新たに感動、そして漆でなければ出来ないもの、白翁でなければ出来ないものを漆藝術に求めて自らの天命と知る。
楽浪の古墳より発掘されたる漆藝の不変なる漆に対し感激、更なる古典を研究続け、長い伝統の歴史の中で育んできた漆藝術を広く学び体得す」との白翁の記述が
その当時の感激を表しております。
この頃は乾漆の特技を生かし、金胎象嵌蒔絵(きんたいぞうがんまきえ)の作品が多く制作されました。
昭和9年11月に平壌、京城に研究作品個展を開催し、当地で大いなる好評を得て自信を高めたのでした。
昭和10年、上野美術協会展に乾漆壺を出品、見事入賞を果たします。その折、貞明皇后(ていめいこうごう)のお目にとまり、宝石箪笥、乾漆菊高蒔絵香炉(かんしつきくたかまきえこうろ)、平棗(ひらなつめ)、中棗(ちゅうなつめ)が大宮御所に納入されます。
また同年、新興美術家協会展覧会に乾漆による「風呂先屏風(ふろさきびょうぶ)」が出品されました。白色や紅色の花をつけたコスモスが屏風一杯に咲き乱れている図で、斬新さが話題になり、東京の医師が家宝として所蔵されました。
古代漆藝研究も進む中、乾漆の特技と金胎象嵌蒔絵の制作にも新たなる苦心を重ね出します。
昭和11年大宮御所:貞明皇后に「宝石箪笥」・菊蒔絵による「香炉」・「平棗」・「中棗」を納品します。第二回聖徳太子奉賛展出品し、入選します。
同年、第三回文部省美術展覧会に「双鳥文漆手筥(そうちょうぶんうるしてばこ)」を出品し、入選します。
昭和12年12月に恩師である山本悌二郎氏逝去。一時、白翁意気消沈すれども、長年受けさせて頂いた恩義に報いる為にも、究極の藝術を極めていく事を心に誓ったと申します。
この年、藝道精進の発願、人間修行の為、般若心経を一日一巻写経することを始めます。(のち写経を続けて30年、昭和42年に10,000巻を達成しております)
同年12年、この苦境を乗り越え、二枚折屏風「瓦当文風景・春秋」 高さ5尺 幅3尺の同形2作品 制作完成1作目は平生釟三郎氏(当時、廣田内閣で文部大臣) 他の1作は山室宗文氏(当時、三菱信託取締役社長)に納まりました。(瓦当とは軒先先端の丸瓦の文様の事)
尚同年12月に刻乾漆文の衝立「海の幸」 高さ4尺 幅4尺5寸が山室宗文氏に納められました。
昭和13年、出石武三氏(京都)に豪華なる碁器具(碁盤)が納まります。
盤側四面は華々しい草花の高蒔絵で表され、盤面は銀地で縦横各19本の線は、純金で引かれ玉は白玉と翡翠で制作されてあります。
昭和14年12月、乾漆衝立一対の作品が山田三治郎氏(当時、旭硝子 会長)に納まりました。
乾漆衝立1作品は疾走する逞しい白馬に繋がる馬車に高貴のお方が坐し、調馬師が巧みに操っている図で、2作品目は菊やコスモスなど他の秋草が画面一杯銀地で描かれている作品です。
白翁は幼き頃より、母から受け継いだ遺伝と思われる気管支炎そして喘息症状を持ち合わせており、激しい咳や痰が多く、すぐに息苦しくなり、無理な運動をしたり、或いは精神的に過重なる負担が続くと、喘息発作も激しくなる等の負荷を背負っておりました。 苦学している当時から白翁自らの座右訓として
一、 菩薩と我はひとつ
ー、 藝道と我はひとつ
一、 新しき創意創作に感謝
一、 藝道に霊感を生かす
一、 常に万全の努力 悔いなき人生に誇りを持つ
一、 刻々病魔との闘争に勝つ
一、 自然法則を悟り人生の何たるかを知る 迷いあるときは一喝
との格言を持っておりました。
この頃、数人の漆芸作家と漆画会を起こし、難解なる漆藝の未知なる挑戦を続けて行きました。独創の漆画への研究・挑戦はまた更にと重ねられ、
我を忘れ一日を試作に明け暮れておりました。
その当時の記述に「独創の漆画の研究・・・従来の技法に頼ることなく漆を厚く延べ、生の内に一本の竹べらにて掻き取り、勝負する技法考案に徹す」とあります。(のちの白翁草案・ヘラ芸による漆画)完成へと導かれます。
創作活動及び創作のほんの僅かの合間や、また煩雑ごとに呑まれ流されている時でさえ、その時々刻々の自分の意思・希望・反省などを絶えず隋筆や詩文の形で
残しており、その隋録は膨大な量で残されております。
「太陽は東より昇り、日輪は燦然として輝き、愛の光の射すところ万物はその恵みを受けて豊かに育つ。藝術は人々の努力と感激に依って育ち造られ、優れたる藝術は萬人の心の糧となる。そして歴史は繰り返す。一日の積み重ねなれば一日を大切にすべし。塞翁馬訓、良きこともあり悪しきことをある。如何に科学文明は発達すると雖も自然法則は変わることなし。藝術は心の技を第一とし、過去の伝統藝術を学び知り盡し、それを踏まえての創作は歴史の1ページを飾る」
その当時の白翁そのものの気持ちが綴られております。
白翁藝道(第四期)
昭和15年、日本貿易会理事の谷林正敏氏の推薦により、白翁は日本貿易会会員となります。
紀元2,600年(昭和15年)奉祝美術展に手許箪笥(てもとたんす)「漆仙果文飾筥(うるしせんかぶんかざりばこ)」を出品し、入賞します。
この「漆仙果文飾筥」はのちに有田先生が所蔵されました。この作品は大桃3個と淡紅色、白の五弁花が散りばめられた豪華な図柄です。
この時期に同時制作されました「漆仙果文飾筥」大桃5個が配された作品がありますが、小磯国昭氏(当時陸軍大将)が所蔵されました。
研究を積み重ねて完成された白翁藝術品の数々が、諸外国に納入され始めます。新たなる研究の為、究極なる藝術への種子となる考えを見つけ出すと、それを育み、
地道なる研究挑戦を続け、自分なりの花を咲かせ続けて行くのでした。
綴りの中に「星は静かに瞬きて我に語る。宇宙は広し、されど心広ければ、藝の道もまた広し。無限の世界に学べば神秘の世界は開く。
悟れば藝の道も自ずから広く開けゆく。アトリエの庭に坐し、毎日東より太陽の昇を見る。日は西に沈み、静かなる夜、星は輝く。藝の道を追求し、自然法則を探る。神秘の世界、自から開け行く。妙藝を悟り、創作は生きる己にある」とあります。
この頃に制作をした乾漆壺で、白翁自慢の作に数えられる傑作品が出来ております。壺全体を濃淡色漆で表現し、壺の中央部に朱地漆が幾層にも重ね塗られ、
透き通るまでに研ぎ出された作品です。
その見事な輝きと色彩を放つ朱地の上に、白色の六花弁を付けたこぶしが、枝に鈴なりに咲いている構図で示され、その壺の反対面になる側面に、鈴形の小さな花を
多数穂状に付けた白色鈴蘭が表現されている「二方絵乾漆壺(にほうえかんしつつぼ)」です。
そして同時進行で制作された総梨子地の長方形乾漆壺も優れた出来栄えでありました。長方壺全体に幾重に塗られ、透き通るまでの朱合漆上に金銀粉を豪華絢爛に
撒いてあり、その上部より更に朱合漆を重ね塗って梨の表面(梨地)にし、更にその上より白漆を中心部分に重ね塗ります。
乾燥後その中心部分に再び色彩漆を幾層にも塗り重ね、乾燥を繰り返します。後方各段階部分で塗り分けされた色彩の色を、作者の表現したいその段階の色の場所
まで、作者長年の勘により炭で波紋状に研ぎ出し仕上げてあります。
壺全体を三方に分けその表面それぞれに紅梅、紫陽花、鶏頭を色彩漆で描いた「三方絵乾漆壺」であります。
実に豪華に仕上がっており、この二点は後年、ある証券会社の会長に納められました。
昭和19年、金胎乾漆象嵌蒔絵研究会を起こします。伝統の金胎象嵌技術に白翁の乾漆技術を併合した、新たなる乾漆金胎象嵌による絵画の研究に入り多数の試作を
発表。のちの「金胎象嵌漆画(きんたいぞうがんしつが)」として白翁のオリジナルとなる原点がここにあります。
白翁は説明します。「金胎象嵌漆画」は銅板を使用する。銅板上に漆で文字や絵を描いても自然に乾かす事は出来ないが、300℃近い熱で焼き付けると完全に銅板上に於いて乾燥させる事が出来る。次にこれを第二塩化鉄溶液に浸けながら、熱を加え五時間ほど経過すると、漆で描かれた部分は腐食されず元の厚さのまま(凸部)で
あるが、如何に漆が強靭であるかが実証されている。漆の付かぬ他の部分(凹部)は腐食溶解して薄くなる。
次にこの作品に付いている薬品を水で完全洗浄し、乾燥後、作品全体の各部凹凸部に色彩漆を幾度も塗り、その都度焼きを入れ乾燥させる。
その次に表面を炭研ぎすると、腐食されずに残っている凸部のみが研ぎだされ、銅の表面が露出する。(凹部は炭研ぎが届かず研がれずにその色彩漆のまま残る)
次に電流を用い純金の液にて鍍金すると、研ぎだされた凸部の銅部のみに純金が鍍金される。(凹部は漆がかかっているので金は付かず)
この技法を用いて金胎象嵌絵画・屏風の大作に挑戦し、制作を重ねていきました。金胎象嵌漆画には「寒山拾得(かんざんじっとく)」、「鍾馗(しょうき)」、「不動明王」、「どくだみ」、「梅が香」、「兎龍活躍泰平乃春(とりゅうかつやくたいへいのはる)」などが残されております。
数多くの作品制作に入る前に白翁は必ず自作・金胎象嵌漆画の「不動明王」の前で般若心経を上げ、精神統一してから制作に入っておりました。
白翁の記に「とかく伝統職人芸の惰性による藝を、最高のものと思うことは間違った見方であり慎むべし。職人は多いが、心の技の優れた独創の藝術は少なし。宗達・光悦の藝術は心の技によりて完成せるもの。永遠に不変の生命ある藝術なり。
心の技とは真なる霊感の姿の表現なり。藝術の眞価はただ技巧だけのものにあらず。優れた藝術には心の技がある。伝統の技術の模倣にあらず、これを踏まえて新しい前例なき優れた独創の心の技に藝術の生命がある。一日一刻闘争、明日という日はなし」とあります。
昭和20年、戦火と共に一切灰燼に帰し、一旦新潟に帰里、疎開をして家族と共に暫くは心静かに考え続けておりましたが、意を決して家族を残し、再び東京に単身で赴くのでありました。
この昭和20年に開催されました「日展第一回展」に『源氏車手筥(げんじくるまてばこ)』を出品入選しております。
また同年、大宮御所に納められる絢爛豪華なる硯箱を製作中で、白翁構想によるその下図が残されております。その中には「大宮御所御納品・御硯筥下繒謹作中」と
示され入山白翁と本名:入山平太郎の両印影が捺印されております。この作品は完成されて大宮御所に納められました。
昭和21年「日展第二回展」に『漆刀に依る盆子〈実り〉』を出品入選。
昭和22年11月、日本橋三越美術部で「白翁個人展」を開催。当時の三越社長の岩瀬英一郎氏から白翁藝術の多大なる理解と推薦を頂き実現しております。
この会場にて象嵌蒔絵による多くの作品を発表しております。その後数年に渡り、三越での個展が開催されています。
昭和23年「日展第四回展」に新たなる技法を取り入れた金胎象嵌蒔絵壁掛け『菩提樹』を出品入選しております。
昭和25年「日展第六回展」・金胎象嵌蒔絵『鏡と筥』を出品し入選。
この年を最後に一切の美術団体を去り、以後無所属となります。
白翁芸道(第五期)
白翁だけではなく他の芸術家の例をとってみましても、何時の世にも独創の流れに反感を示し、その芽を摘み取ろうとする輩が必ずいるものです。
当時の白翁の手記に「藝術の使命たる心の技を論ぜずして、ただ利欲だけの取り扱いをする事は 、藝術への罪悪であると思う。心の技の藝術を愛し、これを研究せば長い歴史の中で育まれた藝術の美を根本から知る事になり、萬人の心の糧となる藝術も生まれ来る。優れたる藝術を愛し育てる事は、また、新しい文化を育てる事に
なると信ず」と記されてあります。
また次のような記も残されております。
「自信と誇りを持てない作品なんぞ価値はない。上手とか下手でなく作家が命を賭けて苦闘練磨の末、自信を持って制作せしものは魂が入っていて、何処かありきたりの作品と異なるもの。これを鑑賞する人との語らいがある筈。好き嫌いは別であるが、美術ブームという名の元で、色々新しく奇抜な作家が世に出てくる事は結構であるが、あまり苦労せず宣伝宜しく人気に胡座をかき、その様な環境のもとで制作される心なき作品を見ると嫌になる」とありました。
創作芸術作品の探求・発表の繰り返しの中、白翁の心の中に如何にしても妥協出来ぬある事に心が留まり、自由なる発想に支障が来たし始めました。
何故か純粋なる藝道を目指す作家達同士が、醜い足の引っ張り合い、我れが我れがと他を押しのけ陥れてまで己を出していく醜い現実。また当時の藝術大家・評論家達のみに認められたるお気に入り作家への優待、抜擢、創作に対する冷たい仕打ち・・・それら一切合財を含め自分の意志を押さえてまで、その流れにへつらい収まっていく事の出来なかった白翁は、遂に意を決して日展・文展をはじめ他の一切の団体より脱し、独立し一人歩み始めるのでした。
その事により空虚で孤独な自身との戦いが続いていくのですが、白翁の影となり力となって支え続けてくださる有田先生の力添えが、白翁藝術完成に絶大なる良き運命をもたらしていくのでした。
当時の記に「人間一人一人の存在であり、人格の存在である。良き人物との出会いによって幸福が保たれる。如何に自分が努力して人の道を守り、萬人の心の糧となる秀れた藝術を完成したとしても、これを愛し育ててくださる人物との出会いがなければ、生きていく道に繋がらない。
苦闘の中でこの世から消え去ってから後、不変の生命力を持つ独創の藝術の真価が認められても遅すぎる。生きている間に、その価値が認められる事を希望する。
人生に希望と夢こそ大切であり、無より来たりて空に還る自然法則は不変である。権力・財力・思想・哲学、人間それぞれ生きる為の便法である。
権力の座は絶対か、財力の座は絶対か、正しき思想と哲学は、人生の在り方に夢と人間としての誠の生き方を教えてくれる。それは自覚であり己を知ることでもある。大衆共同生活の中で、お互いに助け合い恵み合い、自己を主張努力し、自己の持つ独特の苦労をしながら完成した自分を大衆に施して、夢と喜びを与え、誇りと喜悦を求める。
それこそが真の芸術作品である。一人の力をより以上に大衆に認めさせんが為、同士を集め宣伝する・・・それが組織の力である 。組織団体の指導権を握り、
一つの力でなく大きな力の中に、自己を主張する現代のあり方は有利ではあるが、創作芸術は孤高の中から生まれる妥協のないものである。千、万の団体の力より、
大なる一つの力こそ創作作家の存在である」とあります。
昭和25年以降は過去にない独創の藝術で勝負に出ます。日本画・油絵・蒔絵と全く異なる独創の「漆画」を完成します。
(白翁藝道(第三期)後半 漆画構想ご参照)
漆画制作にはまず乾漆板の制作から始まります。乾漆板制作には合板を使用します。漆には引く力が非常に強い特徴があり、板に漆を延ばした場合その板が弓なりに曲がってしまいます。
板は科の木の厚手合板(1㎝~2㎝)を用い、板の小口(四方の裁断面)や板の表裏面に全てさび漆をへらで万遍なく延ばし、いわゆる完全なる《乾漆板》として固めておくのです。
さび漆とは、純日本産生漆の中に、砥の粉を水でよく練ったものを両者へらで万遍なくよく練り混ぜ合わせた漆であります。
その完成された乾漆板の上に更にさび漆をへらにてまず下地用に薄く隅々まで平均に渡していきます。
一番最初に施す下地には地の粉(火山灰)、または焼いた粘土や瓦を細かく砕いたものと生漆を混ぜて使用する秘伝を白翁より聞いた事があります。
数日してその乾燥を確認し表面を布やすりで、平らに均らしていきます。
漆は上等で新しいものに限るとの事で、乾燥が実に大きく違ってきてしまいます。
白翁は初期制作時より徹底して漆材にこだわりを持っておりました。ベトナム系漆には混ぜ物が多く、また、代用漆等は長持ちせず色褪せが早い。
漆器に使用される漆には油が入っている。
高価であるけれど油の入らぬ最良の純日本漆・正生味を私は使用していると申しておりました。
さて、いよいよ制作の準備が出来ますと、再度さび漆を制作する作品によって1㎝ ~3.5㎝の厚さにへらで渡していきます。漆を延べる事により下絵は一切使えず、
作者の頭の中に描く構図のみを頼りに、一気に漆の生の内に刷毛や筆に頼る事なく、一本の「竹べら」にて切り込み、掻き取り、盛り上げながら絵画・紋様・文字と
目的の作品へと完成していきます。
風通しの良い場所で数日かけて乾燥を待ち、一旦固めたる後に、表面を砥石・金やすり・紙やすり等で滑らかに整えます。(完全に乾燥固まった漆は刃物もとぶ程の
硬さになっております)その行程が終わりますと絵画となる表面、そしてその板裏、小口全てに朱合漆を塗り乾燥させます。それからいよいよ絵画の彩色でありますが、色彩漆(白翁独自調整による色彩漆)を自らの指頭で構図に合わせ調和を計りながら指頭のみで完成していきます。漆画の特徴として従来の筆や刷毛類は
一切不要とし、一本の「竹べら」に勝負を賭けた画期的な手法であり、《乾漆へら芸・指頭画による「漆画」》と名付けられております。
先ほど述べましたように漆による彩色には筆や刷毛を一切使用せぬ為、作者の指頭のみで彩色する関係で大作が完成される時には、指の指紋が擦り切れ見えなくなっているのが常でした。
作品説明の折、コレクターに指紋の見えなくなっている部分を見せながら、漆画制作苦心談をしていた白翁の姿が思い出されます。
多量の重いさび漆を使用してのぶっつけ本番制作には、呼吸器の病を持つ白翁にはとても堪えがたい作業でした。(中途で休憩をとることは絶対に出来ません。それは漆の表面に薄皮が張りだす事により、へらの動きが円滑に行かなくなり制作不能となるからです)
制作に入る前、その心境を次の様に語っておりました。
「私が制作作業に入る事は、戦いを前にした昔の武士の心境と同じであり、一度刀を抜いたら(さび漆に向かい一度へらを持ったら) やり直しの利かぬ、
やるかやられるかの真剣勝負だ・・・ 」と。
この「漆画」創案後、暫くして「漆版画」手法も発表いたしました。
漆版画完成品をアメリカ文化大使・グレンショウ氏にお見せしましたところ「今までの版画と全く異なる白翁のオリジナルである」と絶賛され【漆エッチング】
と命名してくださいました。そしてアイゼンハワー大統領とダレス国務長官に贈呈されました。
しかし、名称を【漆エッチング】とすることは、本来の漆をもって創案された版画とはイメージがだいぶ異なってしまうとの考えで、白翁が【漆版画】と
名称を変更し、更に、後に【漆絵版画】と名称を改訂して定めました。
『「漆絵版画」とは、従来の木版・銅板・石版とは違い、乾漆板の上にさび漆で目的の絵画や文様等をへらの切込みで表現して固め、版画原版として制作。
その技法は「漆画」製作工程での発想であり、目的の絵画、文字、文様等逆さで表現完成させなければならぬ難解な作業です。完成された原版上に純日本漆の色彩漆を延べて刷り上げ完成する手法で、漆の持つ独特の味わいを生かしての芸術であり、不変の色彩漆とデザインの妙とが相俟って、漆絵版画たる特徴を
生かしたもの・・・』と語っておりました。
この手法は漆画制作工程と同じく乾漆板の上にさび漆を分厚く延べます。しかし漆画手法と同方法でありますが、あくまで漆絵版画原版としての制作ですので、
さび漆全体を1.5㎝~2.0㎝位の厚さに大べらで平に延ばしていきます。
それが生の内に幾種の小べらで目的の絵画の構図をさび漆に切り込んで、細かく原版へと完成させていきます。漆画制作と同じく漆を厚く延ばす事によって表現する
技法のために下絵は一切使えず、作者の脳裏に描く素描のままぶっつけ本番にて、版画原版となるべきものをより正確に早く制作していきます。
しかし版画の為、逆さ絵制作となりますので漆画手法にない苦労も重なってまいります。
素材が難しい漆なるが故に、作品号数が大きくなればなる程、やはり困難なる問題が出てまいります。(制作中表面に漆皮が張り、へらの動きが出来なくなる事も漆画制作時と同様であります) 。大型作品となりますと漆画制作工程と同じく制作画面を等分か三等分に考え、その部分と部分を一つの面として完成する度にすぐ次の部分を制作していかねばなりません。一つの画面にその構図をより良く繋ぎ纏めながら完成させていく事は、実に難儀なる作業でありました。
数日後、完全の乾燥を確認してから表面を平らに砥石や紙・布やすりで整え、その原版の上に朱合漆(しゅあいうるし)で凸凹全ての部分を塗り固めて完全なる版画原版として完成させていきます。
原版上に大小のローラーを駆使して色彩漆で色分けして延ばし、麻布や絹地、和紙等を当てて特製「ばれん」にて摺りあげます。
漆版画は非常に強い力で押しながら摺りあげますので、原版がひび割れしたり、原画が割れ抜け落ちたりしますので、原版が保てず多くても八枚~十枚が
限度となります。
作品により純金箔や青金(18金)や純銀箔などを漆に打ち込んだ幻想的で優美なる作品も多く発表していきました。漆絵版画作品の中で、光沢ある〈烏の濡れ羽色〉と
表現されている黒漆は、その中に煙突の煤から精製した油煙を混ぜ練ったものを使用しており、これも秘伝の内の一つでした。
使用する漆はどの作品に関しても些少なるごみ、塵を除くため絶えず吉野紙(こうぞを原料とした薄手の和紙) で濾しておりました。
「ばれん」は全て白翁の手作りであります。細めの柔らかい或いは硬い糸を、数種巧みにねじり縒り合わせ、渦巻状に平らになる様に芯を作っていき、竹の皮で包み、凧糸(麻)でしっかり結びを縛り完成させます。数種混ぜてある糸の種類により、漆による版画が実に細部に渡るまで克明に表現でき、このばれん作りも秘伝の一つで
ありました。
この漆絵版画を、当時の立正大学教授で文博であります楢崎宗重氏(後の日本浮世絵協会理事) が「鏤線(ろうせん)が直に生きていて直情的流動的な点で、
木版画より純粋であり、へらを使い込んで自由にその切れ味を発揮する版式は見事である」と賛辞をおくっております。
この頃の記に「竹箆(たけべら)一本大明神 妙技菩薩の心を持って 宇宙霊感を掴むとき優れたる独創の漆画を生ず。竹箆一本諸菩薩の心は一なり。
竹箆の先々より霊気が漂う。一本の竹箆の中に人生哲学を見出す。漆を厚く延べて生の内に掻き取りて、画面を構成して勝負す。
三千年の内にこのような技法で 漆をもって独創の漆画を完成せるものなし。それが白翁の漆画の全てなるべし」とあります。
昭和26年、渋谷区の住所に住居とアトリエを完成します。敷地百数坪に庭を多く取り、スケッチ教材として各種の植物を植樹します。
後年この庭に育った菩提樹について昔の面白い記憶が残されております。
『奇跡は起こるべきしておこる。私のアトリエの庭に菩提樹育ち花咲き実る。沙羅双樹の白き花、洗心、自覚、佛の声を聴く。近年樹齢三十年にもなる庭内の菩提樹の葉に奇跡的現象を見る。通常の葉の六倍もある大きな葉が東側の一枝に、三年間続いて五枚づつ生ずる。その一葉を持参して浅草寺の大僧正・清水谷恭順(きょうじゅん)氏を訪う。以上の次第をお話し申上げたところ、大僧正は、先年インドを渡った折、ブッタガヤより持参されたる菩提樹の葉と私のアトリエに育ちたる葉と並べてご覧になる。私のアトリエに育ちたる葉の異常の大きさが確かめられた。大僧正曰く「仏縁奇跡なり」と申され「貴下の身辺に近々奇跡が起こるであろう」と
申された。その菩提樹の葉を全て大切に押し葉にして保存す。事実は小説より奇なり。そして独創の漆画の不可能かと思われし難しき点が、次々と可能となり変化を
見る。独創の漆画の世界に光明を見出す。奇跡なるべし』とあります。
その当時の世の流れとして創作藝術に関しては、依然として冷たい待遇で扱われる事がまだ続いておりましたが、白翁は常に自信と誇りを失いませんでした。
内容も知らずしてただ、批評や批判ばかりする人達に臆する事なく新作を発表続けていきました。
また、別の記に「漆の藝術三千年、如何に科学文明は発達すれども自然法則は変わる事なし。 藝術は心の技を第一とし、過去の伝統芸術を知り尽してこれを踏まえての創作は歴史の1ページを飾る。然し、それが理解されるには、作者がこの世を去りて百年の後である。それは一本の竹箆にて勝負する漆画・乾漆へら藝指頭画の事であるが、希望、努力、一日無事、感謝、常に心安らかなれば幸福なるべし。迷いあれば希望を失い努力もせず感謝する事もなければ、喜ぶ事も知らない不幸の人と
なる。
悟る事、迷う事は幸福と不幸の分かれ道でもある。権力の座、財力の坐は人間の生きる為の便法である。正しき思想と哲学は生きる為の必要条件である。
悟りこそは人間の価値を高めゆく。禅の哲学は自然法則を知る事であり、過去、現在、未来の因縁の根本を知るべし。一日無事 これ最高の哲学なり。
良寛を尊敬、長じて大燈国師(だいとうこくし)に学ぶ。老いては釈迦の弟子となる。娑婆の渦中に在りて、正しき人生観を見い出し、迷う事なく我が道を行く。
創作藝術に徹する事も最高の哲学なり・・・」と。
丁度この頃に、長年の研究成果が実り、乾漆硯(かんしつすずり)も遂に完成に漕ぎつき、多くの名硯を発表しました 。恩師の山本悌二郎先生や犬養木堂先生の精神指導を受けて以来、硯の研究も継続され、洮河緑石硯(とうがりょくせきけん)、歙洲硯(きゅうじゅうけん)、澄泥硯(ちょうでいけん)、端渓硯(たんけいけん)など、
多くの体験・研究を重ね独創による乾漆硯を完成しております 。
白翁は「独創の乾漆硯は強靭にして密なること天女の肌の如し。心静かに墨を磨る時、音なく油の上を遊ぶが如し。墨は細かに良く摺れて、墨色に七色の変化を
自覚す」と述べております。
また、「墨は膠(にかわ)で固め造られている。白翁乾漆硯は油の入らぬ純日本漆で制作されているので、墨と漆両者の肌との触れ合いにより、音なくまるで油の上を
滑るが如く、しかもよく摺れて深みのある墨色が得られるのであります」と述べております。
更に、当時の白翁記述に「藝術家の伝記を調べて思う事は、深い人間修行の上に藝術至上主義に徹した人の努力、苦闘の練磨であって、独特の藝道を開いた創作は、
その当時にとって世に見出される事が少なく、五十年、百年後に初めてその真価を解する場合が多い。ただ、世渡り上手で世相に合う事を実行した者が、
時の人となる事は当然の事であり、また、すぐ消えてなくなるものでもある」とあります。
昭和29年、白翁創作による漆絵版画及び漆画が政府のお土産品として米国・英国・仏国 ・独国・アルゼンチン・オランダ・ベルギー等に納品されました。
また、この年ソビエト美術館 に、金胎象嵌に依る「藤」の金胎乾漆壺が納入されました。
この壺は金属(銅)を打ち延ばし、胴体部を広くふくよかなる稜線で整えてあり、その表面上に、金胎象嵌手法により幾度も漆を施し、焼入れを繰り返した後、
全体を朱漆で仕上げてあります。
その朱漆上に漆黒でねじれた藤の古木を大胆に、壺面を横切る様にどっかりと位置させ、その枝々より壺一杯に藤花がたわわに垂れ下がる見事な出来栄えの
作品でした。
藤花の表現方法は、金胎象嵌手法により砥ぎ出された銅面に金が鍍金(ときん)されておりました。この壺の特徴である大きく開いた壺口周辺一帯は、矢張り漆黒で
覆われ朱漆の中でのその漆黒が、著明に浮き上がり、実に鮮やかに彩られておりました。
この年も白翁の心労や煩う事の多かった中で生まれながらの病根の呼吸器の発作を繰り返し、病院の世話になりながらも創作三昧で乗り切っておりました。
当時の記に「何時の世にもそうであったであろうけれども、現美術界を冷静に観察する時、世は正に百鬼夜行の姿である。玉石混合は世相の示す所なれども、
心眼を開きて心の糧となる藝術を愛し育てるべし。藝術の存在は突然生まれたるものにあらず。人類の長き歴史の中で、人々が努力感激し、宇宙自然の美をより以上に美化せんとする事に依って、美術藝術は育ち、人々に喜びと楽しさを与えるものである。時代の流行を超越して名作は、万人の心の糧となる」とありました。
昭和31年、32年、33年と三越本店画廊にて「漆画展」を開催。好評を得て漆画に対する認識が高められていきました。
この個展に白翁前期作も出品されました。
「金胎乾漆煙管(十二本揃い) 」を豪華なるケースに入れ共に出品しております。
この作品の中に白翁の書(和紙の巻紙)が入っております。
そこには《金胎乾漆煙管と題して》との表題で「金属を手打ちとなし、それを素としてその上に漆を厚く下地百二十回に及ぶ。一回ごとに高温百二十℃に焼き付け
銀地を施し、その上に四季の草花をデザイン、高蒔絵として完成す。一本ずつ美術愛好家に愛蔵さるも、十二本揃いのコレクションはこれ以外になし。
また、過去の美術歴史上にも見当たらぬ独創の藝術なり」と記されております。
因みに一本ずつを愛蔵されておられる方は、吉田茂氏(元首相)、木村篤太郎氏(元防衛庁長官)、大野木秀次郎氏(吉田茂内閣当時の国務大臣で元関西財界人)、
アイケルバーガー夫人(ホアン・タイロン・アイケルバーガー氏は元米国プロ野球選手)、ジョン・フォスター・ダレス(元米国国務長官)であります。
金胎乾漆煙管には梅、桜、牡丹、藤、あやめ、撫子(なでしこ)、桔梗(ききょう)、龍謄(りんどう)、菊、もみじ、野菊、水仙の12本揃いになっております。
白翁の記に「豊なる感激は創作藝術の優れたる作品の母体となる。大宇宙の心理・自然の法則の下に、愛の光の射すところ安らかにその心を掴むとき創作は生まる。
藝は人なり、心の技を第一とす。一藝を極むれば萬藝に通ず。藝術に国境なし。優れたる藝術は時代の流行を超越す。漆の藝術三千年、不変の歴史あり、
あとは菩薩に聞くと良い」とあります。
この頃、ある財界人より紹介を受け、帝国製麻社長・山田酉蔵(とりぞう)氏と巡り合うご縁を得たことが、漆絵版画に大いなる発展に繋がりました。
山田氏は白翁創案による漆絵版画手法で完成された作品の数々を、初めてご覧になられ、驚きと感激を持って、評価して下さいました。
麻布に表現された色彩漆に依る各版画が見事に摺り上がっている作品一枚一枚に釘付け状態となり「今まで見た事もない漆の版画技術であり、見事に麻のもつ特徴を
十分に引き出しておられる事は驚嘆に値する」と絶賛され、作品と共に、作家入山白翁に惚れ込んで下さいました。
アトリエに良く出向いては、白翁の立てる抹茶を楽しみながら、藝術奇談に花を咲かせてお帰りになるのが常でした。その度ごとに麻の漆絵版画を求められ、
会社関係や外国へのお土産にと利用されておりました。
その内、自社製の麻を版画専用に特別に織ってくださる様になり、白翁は以後、帝国製麻の麻以外を使用しなくなりました。
この頃に次の様な記が残されております。「新潟県白根市は私の郷里である。毎年の如く六月になると北風が吹き、中の口川両岸を挟みて大凧合戦が行われ、
男性的で大胆なる事、天下一品希に見る郷土詩である。東の町側と西の農家側の二組に分かれ、それぞれの意匠する図案の大凧を造り、これを絡ませて太き麻紐の強弱を争うのである。
この凧絵を版画に表現してみたくなり、特別な荒目の麻布を使用し、幅1メートル長さ2メートルある麻布上に、東西の凧絵を各種混ぜ壮絶なる戦いの表現を試みた。
北風の吹く表現は色彩漆でその流れを幾筋とつけて、凧絵の中に組み合わせた漆絵版画に依る壁掛けが二点完成した。この内の一点は帝国製麻の山田社長室に飾られてある。他の一点は八幡製鉄が買い上げて 、インドネシアのスカルノ大統領が来日されたる時、贈り物として起用された。
日本の独特の風物詩であり、独創の漆絵版画であるという事で、大統領官邸に飾られた由。時代の流れとインドネシア政変の為、その作品はどうなったかと今は知る由もなし・・・」とあります。
この年の数年程前より、三菱電機社長の高杉晋一氏と懇意のお付き合いも始まっておりました 。後に白翁前期作品及び漆画、漆絵版画等多数に渡る所有者となっていきます。
高杉氏は三菱関係財界人よりのご紹介でありました。氏は当時の財界三筆といわれた中のお一人で、実に風格ある書で知られておりました。
高杉氏の書と白翁書画との合作話が纏まり、作品も多数残されております。
中でも三十号漆絵版画による「達磨(だるま)」は画面背景の六祖偈(ろくそのげ)であるが、中国唐代の僧で達磨より六代目・南宋禅の開祖・慧能禅師(えのうぜんじ)の偈(げ)である。偈とは、悟りの境地を詩にしたものであるが、六祖慧能はその境地を「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処惹塵埃」(ぼだいもときなし、めいきょうもまたうてなにあらず、ほんらいむいちぶつ、いずれのところにか、じんあいをひかんや) と詠った。
高杉氏の書による偈を朱漆で表わし、その偈の下部に白翁の達磨を大写しの黒漆で表わした両者共作の漆絵版画であります。高杉氏の書を逆文字で版画原版にすべく、
挑み完成させました。
数点の共作が続く中、やがて高杉氏は更なる活動を願って白翁藝術発起人総代となってくださり、石坂泰三氏(元経団連会長)、稲垣平太郎氏(実業家)、
遠山元一氏(日興證券の創業者で初代会長)、西川政一氏(日商岩井初代の代表取締役)、小林小一郎氏(小林牛乳創業者)、佐藤栄作氏(元首相)、
木村篤太郎氏(元防衛庁長官)など政財界の人脈を繋いでくださり、作品が多数各方面へと納まっていきました。
また、三菱電機岩崎弥太郎記念会館にも漆画大作30号「雲海の富士」を入れてくださり、三菱関連会社の取締役会で一堂が集まる会議室正面にその大作を
掛けて下さいました。
高杉氏いわく「三菱関連会社の重役達がこの部屋に入る時、正面に飾ってある先生の作品に向かって敬意を表し頭を下げて入るよ」と笑顔で申された事で、
白翁は深い感銘と感謝の気持ちを持って深々と頭を下げたとの事でした。
以後、近鉄、大和、東急、伊勢丹、小田急など各デパート美術画廊や資生堂ギャラリー、経団連会館、アメリカン倶楽部などで「漆画展」や「乾漆硯展」、
「漆絵版画展」を開催し大いに活躍します。
経団連会館〈明治の間〉で白翁乾漆硯展を開催した折、会場において集まる人達の前で自作硯にて墨を磨り、漆硯に対する白翁持論の趣意を書き表し、
書画を描いて実演をして見せました。また、数十点展示されている硯横にその趣意書を共に飾っておりました。それには次のように示されておりました。
【漆の醍醐味は黒漆に始まり、黒漆に終わる。色彩漆も亦良し。最良の油の入らない漆で、乾漆作りの技法にて堆漆(ついしつ)を繰り返し制作。漆の肌は天女の肌より勝るとも劣る事無し。神秘の妙力あり。乾漆へら藝に依る乾漆硯にて心静かに名墨を磨る時、阿吽(あうん)の呼吸整えば宇宙の妙音を聴く。
墨色に七色の変化を自覚す。
十回墨を磨りて墨色を見る。二十回、三十回、四十回とその都度墨色を見る。更に続け百八回と人間煩悩の数まで磨る。その以前に良き墨色の頃合を見て、その段階の墨色に合う作品をそれぞれに思考し挑戦す。此れにて墨絵または即興の詩書を楽しむ。藝道無門 心の技を第一とす。 快哉・・・】と記されておりました。
この趣意と共に会場で実演した墨絵類や詩書も共に飾られました。その時代の記に次の様な文も残されております。
「藝術とは長い歴史の中で育てられ、愛されてきた美を人の努力と感激によって創られたものである。自然の花は美しく咲き、そしてすぐに散る。
ある素材の独特なる表現様式によってその美を散る事のなき姿に表現出来る。それが藝術である。
その美も不変である事を望む。藝術価値とは何か、広く宣伝される事によって価値観は高まる。社会人が良いと言うから、あの人の作品に価値があり優れたものだというから、楽しみながらも次第に価値も出てくる。出るからそれで買う。
真の藝術価値ある作品は心安らかに鑑賞する時、ほのぼのと豊かに心の糧となるべき作品・・・それが価値ある作品である。ただ有名だから宣伝されているから
価値ある作品とは思われない。藝術は人なり。藝術に国境なく、萬人の心の糧となる優れたる作品は、真の藝術的価値あるものである。
めくら千人、目明き三人と人は言う・・・」とあります。
昭和35年、スイス、西独の展示会に出品。また、アメリカ文化大使グレンショウ氏の紹介でアイゼンハワー元米国大統領、ダレス元米国国務長官、
ケネディ元米国大統領、パブリックライブラリー等に作品を納入します。
この同年35年に、日米修好通商の100年目にあたり記念行事が行われました。条約批准交換の為、万延元年2月10日、我が国初の遣米使節が、
アメリカから派遣された軍艦ポーハタン号で寄港。
また、別に同じ使節随行として、木村攝津守や他の随行員が徳川幕府の軍艦咸臨丸に乗って、渡米してからちょうど100年にあたり、それを記念して吉田茂総裁を
団長として「日米修好通商百年記念」が行われました。
その記念行事の折に、298名の功労米人各人に白翁の漆絵版画・「咸臨丸」(八号)の寄贈が決まり、連日の制作に取り掛かります。漆絵版画は数多くの枚数が
取れぬ為、原版となるべき咸臨丸の版を、数10通りを制作しなくてはならず、気管支炎で苦しむ 白翁にとっては、病院との往復で連日が試練の連続でありました。
白翁は昔より弟子は持たなかったので体調の優れぬ時、製作準備そして、力の要する作業を手伝う息子を「私の唯一の弟子」と人に語っておりました。
記念式典には吉田茂氏をはじめ稲垣平太郎氏(元日本貿易会会長)、吉田初次郎氏(元大東防織会長)、阿部孝次郎氏(元東洋紡績会長)、
永野重雄氏(元富士製鉄社長)、鹿内信隆氏(元ニッポン放送、フジテレビ社長)など当時の政財界の花形が一同に会しました。
この会場で白翁は吉田茂総裁より心のこもった感謝状を受け、アトリエに飾るのでした。
当時の白翁記の中に{大磯の吉田茂氏と対問してお話をした折、私が閣下は何を召し上がっておられるのでしょうかとお聞きしました所、「人を食って生きているよ」と笑いながら語られ、日米修好通商記念の感謝状に署名された}との記述があります。
この記念行事についての白翁の記に「百年の間、米国人で日本に対して発展友好親善に貢献されたる人達二百九十八名選出され、それぞれその人達の略歴や功績を
収録し、記念品を贈呈される事になり、難航中の咸臨丸をテーマとして漆絵版画の作品を、日本政府並びに日米協会から依頼あり。
麻地のキャンパスに漆にて表現せるもの、紺地麻上に咸臨丸は純金、波は純銀で表現す。漆絵版画手法に依り、漆で押された咸臨丸に純金箔を置き、その上に薄美濃紙を置いて丸型刷毛打ちを用い、軽く叩きながら漆に付着させる。波も同じく押された漆上に純銀箔を置き叩いて漆に付着させる。
八号サイズの紺地麻中心に、横長の円で大きく空間をあけその中は、麻生地の紺をそのまま生かす。円以外他の回り全てを朱漆で押す。
所謂、朱地外枠内の空間で、長円形に抜かれた紺地の中で難航する咸臨丸を表現。それぞれに特製額入りにて収めました。
友好親善に功績のあった表彰された人々の中には、時代は遡りハリス、ペリー提督、そしてマッカーサー(元米国元帥)・バイニング夫人、
ライシャワー(元米国)大使両親も入っておられた。作品一枚ごとに表彰状を付けて日米協会長の吉田茂氏サイン入りで贈られた。
百年目にあたる当日、日本の会場で盛大なる式典が行われ、アメリカ大使として選ばれたお方はマッカーサー大使であった。
当年の五月から一年間に渡り記念行事が行われた。各界の名士多数出席の元、感謝状と共に記念作品の贈呈式が東京會舘で行われた。
この作品の愛蔵者は、アメリカ人のみ二百九十八名と、日本人では吉田茂氏と日本貿易会会長の稲垣平太郎氏二人であった。
漆絵版画は入山白翁の創作であり、過去の歴史にはない独創なる技法によるもの・・・」とあります。
昭和38年8月8日、外政学会招待でPT109号乗員歓迎パーティーが般若苑で開催されました。南太平洋ソロモン海域で、若き日のケネディ中尉の指揮する米海軍魚雷艇「PT109号」が日本海軍の駆逐艦「天霧」の体当たりによって真二つに引き裂かれたのが昭和18年8月2日ですが、11人の生存者の1名は、後のアメリカ大統領の
ジョン・エフ・ケネディー氏であります。
その生き残った乗員の中の7名が招待来日、その折、「天霧」の艦長・花見弘平氏も同席。日米親善の感謝を込めて白翁作15号漆絵版画が全員によってそれぞれ好きな
図柄が選ばれました。
ちなみにケネディ大統領蔵と決まったのは漆絵版画15号「みのり礼讃菩薩」と15号「波と富士」でした。「波と富士」はホワイトハウス蔵となりました。
昭和40年3月4日 有田八郎氏逝去。
港区芝愛宕・青松寺で葬儀が行われました。有田先生の体調が崩れ始めてからも暇あるごと、白翁は先生の身辺に通い続けておりましたが、
遂に帰らぬ人となってしまいました。
激しい精神的打撃を受け、白翁の体調も合わせた様に崩れ初めてしまい、夜中によく発作を起し、病院通いが頻繁となり始めました。
家族皆も神経質になり、難しい話や心配事など一切遮断して、白翁の耳に入れず静養に専念させたのでした。
その昭和40年代(白翁60才)、以前より相変わらずの喘息発作、呼吸困難で入退院繰り返しの中でも、体調を見ながら制作続行でありましたが、矢張り大黒柱を失ったという精神的打撃と連日の過労の積み重ねで、肺気腫の合併症が再悪化、真夜中に呼吸困難、血行障害を起し救急車で、緊急入院を余儀なくされます。
全く突如の出来事でしたが数日後急変し、危篤状態に陥り家族が呼ばれました。
二日間は意識が戻りませんでしたが、皆の見守る中でこれぞ正しく奇跡の生還とも言うべき蘇りで記憶がはっきりと戻り、私達をじっと見つめるまでに回復を
みせました。
必死で処置を続けていた医師達も正に奇跡以外なにものでもない・・・といたく感激したのでした。その模様の記は次の様に残されております。
「白翁は一旦死す。病と自己との闘争に勝ち抜き闘魂逞しゅうして生還す」と実に白翁記する通りの生還でありました。
数日後、ベッドより家族に向かい静かにねぎらいの言葉と詫びを述べるのでした。
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