白翁藝道(第六期)

 

 

昭和41年、退院後は数ヶ月ベッド中心での休養を重ねておりましたが小悟を得た後も、かなりの期間ベッドで思考を重ね続けておりました。

様々の案中より次期制作を絞り、富士山の制作に挑み挑戦を続けていく事になるのです。

後日の記に「富士は日本人の心の拠り所であり、霊峰にして世界に誇りを持ちて紹介すべきである。昭和十年頃、山中湖畔籠坂峠近くの有田八郎氏の山荘に、

毎年訪れ富士を描くこと久し。過去現在に至る富士を主としたる作品多し。心に触れて山の霊感と作者の霊感と一つと成りたる時、漆にて表現せんと苦心して今日に

至る。然れども三十有余年、富士を漆画として試作制作数十点に及ぶも今だ自信作少なし。昭和四十一年の春、健康維持危ぶまれしも小悟を得て意を決し、

山中湖から望む「暁の富士」・漆画八十号に着手。病後であれど苦心の結果完成す。快哉 快哉 昭和四十一年吉日」とあります。

この富士は後に建設会社会長宅に納まります。

 

昭和42年、長年の構想であった、福井県北部にある東尋坊を漆画として完成させる為、是非当地へ出向きたく、普段の白翁にない行動をとり始めました。

身心静養の意味を兼ね、制作の合間を見ては自宅療養を静かに重ね続けていたのですが、次期制作構想は次から次へと重なり、ついついまた夜中まで起きての準備が

始まり出し、その事で家族との衝突も頻繁でありました。

病身健康維持として、色々の注意事項を担当医から受けている家族としては、また、当然の姿勢でもあったのです。他の面では家族に心配させる様な事をあまりした事がなかったのですが、こと藝術に関する内容になりますと、全く聞く耳を持たず身を捨てて没頭続けてしまうのが常でした。

 

そして遂に行動開始。福井県に長期滞在し膨大な資料、スケッチ類と共に帰京します。その後はアトリエに篭り制作三昧を重ねるのでした。

この頃白翁はさび漆をこねる体力は益々劣る一方で、度々息子が力仕事を代わっておりました。

白翁記に『漆画に表現する事多し 1枚毎に心新たなり。見る所によりその時々によって、変化は千変萬化の感あり。漆という材質と相まって、いよいよ神秘に表現する事に楽しみを得る。

 

上野美術学校・漆工科卒の翌年、昭和九年朝鮮楽浪文化研究の折、漆藝の古典研究と漢時代の遺品、そして朝鮮楽浪の研究のために平壌に渡り、続いて慶洲佛国寺、

金剛山に遊ぶ。その山肌の奇岩を漆画に表現せんとするも、力及ばず。

三十有余年後にして昭和四十二年、同系の岩肌岩盤を持つ福井県東尋坊を訪れ、スケッチを繰り返し これを各号の漆画に完成せり。続いて翌四十三年三月、淡路島に渡り大渦との挑戦を開始する事が出来た。

漆画各号の「大渦」「波涛」「怒涛」などを次々に完成。然れどもその活躍の間にも呼吸困難、血行障害で病院自宅療養の反復であった』とあります。

この後、可成りの月日を要し静養せざるを得なくなりますが、相も変わらず少し小康得ますと制作を始め、そして発作が頻繁に現れる・・・との繰り返しはいつもの

通りでありました 。

 

昭和47年、月日は過ぎましても病床のベッドにあって構想を練る事は変わりなく、多くのその構想の中より一つの画材に的を集約しておりました。埼玉県春日部に

樹齢1,200年、国の特別天然記念物に指定されております我が国最大の牛島の藤があります。根元の総周囲が約9メートル、木の枝の広がりが100坪以上、

年々2メートルもある房を下げ、甘美なる香りを充満する正に藤の怪物であります。

長い静養中に考えたことは、自分の余力を振り絞ってでもこの藤を是非とも漆画に纏めてみたいと、希望を膨らませていたのです。用意万端ととのえて遂に制作活動を開始いたしました。比較的体調の宜しき日を見つけては、息子を伴い春日部通いが始まるのでした。

 

暑い夏の盛りでした。現場に着き旧家の主人にスケッチを申し込む白翁に、主人は全く素気無く断わるのでした。老木で弱っている上に、根本にうろうろされると枯れる恐れがあるというのが主な理由でした。

白翁は自分が漆藝家である事を明かし、熱心に言葉を進めました。

「貴方はそう仰るけれど、樹齢1,200年も維持したこの生命が、この先何時まで持ち堪えられるかお考えになられた事がありますか?私なら、漆の力をもってして

更に数千年の生命を維持し、この藤を永代に亙り私が生かして見せましょう」と力説を続け説得しました。その甲斐があり、遂に承諾を取りつける事が出来たのでした。

 藤は酒が好きとの事で、スケッチ前に一升の酒を根の周りに撒いて「白翁の漆画でお前と勝負をするから霊気を現せ!」と物に憑いたようにスケッチを続け始めたのです。この場所に何回となく酒を持って通い、納得の行くまで徹底的にスケッチ、観察、研究の繰り返しが始まります。

 

藤の巨木を囲むように周りに淀んだ小川があり、殆ど流れなく底には汚水や雨水、そして泥が分厚く溜まっておりました。その小川中にぼうふらが幾千幾万となく、

底と水面とを上昇下降を繰り返し、水面はまるで雨が降っているかの様に、小川全体がぽつぽつぽつと動いておりました。

現場に着くと同時に白翁の伴をしてきた息子の顔といわず足といわず蚊がとまりだし、慌てて足腕を動かしながら白翁を見ると、既に夢中でスケッチを繰り返しているその両腕には、蚊が気味悪いほど付いておりました。

それを払うでもなく無我夢中でスケッチを繰り返す姿には、呆れ果てる事より寧ろ、神々しく神威さえ感じてくるのでした。

 

49年に100号2枚連作・漆画200号の「藤の巨木」が遂に完成したのでした。

当然の事に制作の途中で何回もの発作に見舞われ、貫徹させるのは到底不可能ではないかと、珍しく弱気の姿も見せたりもしておりました。病弱、非力である者が

難しい漆という画材を使用駆使して、この様な大作を完成させるという事に、感激を示した多くの記事がこの頃掲載されました。

後日、白翁の記に「富士、波涛、渦と挑戦して久し。日々植物とも語る。昨年壱千年以上を生き抜きし藤の霊樹巨木と出会う。その生気霊感に打たる。この辺り一面に霊気が漂う。壱千二百年の永きを、この世に生まれたる歴史の事実を知る。彼との問答して思う事は、人間より遥か以上の霊波を発する神秘の力あることの事実を

知った。相対し心静かに観察する時、魂の触れ合いを覚ゆ。一枝一花に至るまでその生命力に魅了されて、その姿のスケッチを繰り返し大作漆画にと完成す・・・」とあります。

 

美術評論家の三宅正太郎氏は白翁を評して「日本の景観、日本の花木を愛着して止まぬこの藝術家は、また仏典に座右名を探って円転滑脱の文字を刻む。

独往の作家であり伝統の継承にあえて造反する異色の作家である」と紹介されておりました。

 

昭和50年(当時)通産省、(当時)運輸省、(当時)文化庁などの主催で沖縄国際海洋博覧会を記念して、名誉総裁に高松宮殿下を、

そして会長に中曽根康弘氏(元首相)を迎え「海を描く現代絵画コンクール展」が開催されました。

多くの出品中、白翁の100号漆画「渦潮」が入選。100号という大画面一杯に怒涛を逆巻き飛沫をあげる大渦、底知れぬエネルギーの躍動が漆の藝術によって見事に

表現された 、白翁の力作でもありました。

 

白翁藝術の歩みは緩やかではありましたが賛同者、愛蔵者も確実に増え、名ある美術評論家達の応援も多くなっておりました。しかしその反面、矢張り時代は変わりましても、何時の世にも必ず存在する人を陥れたり、嫌がらせや妬みそねみの数々は依然として、白翁の前に立ちはだかっておりました。

一切の団体に属せぬ一匹狼的存在であるが故に、後ろ盾がなく弱い立場でありましたが、ひるむ事なく黙々と創案創作を続けておりました。

ある評曰く「作品ごとに生命を懸け続ける姿勢は、実に純粋にして雄美なる姿であり頭の下がる思いであります。それら全てが作品の中に確実に伝わってい筈・・・」と白翁を称える世評もありました。

 

この沖縄国際海洋博に出品した「渦潮」作品になぞらえた白翁記に「人生とは何か・・・波涛、逆波、渦の中にあるが如し。時代の波に押し流され、波底に沈み二度と立ち上がれなければそれまでである。常に努力し、波頭に立ち、自己を主張する事は、制作に生きる者の宿命であり誇りでもある。波涛と渦・・・闘争の中の挑戦、

激しい力と力のぶつかり合って起こる波涛と渦の現象は、現代社会の如し。右に巻くか左に走るかは、その力の当たり方によって定まる。独創の藝術は歴史に挑戦する激動の世界。人生に在りて、勝利を得たる者が正しいと主張する現代社会も、自然現象も似たり 」とあります。

 

また別の記に「優れた独創の藝術を見出し、これを愛し育てて下さる人によって新しい文化は育つ。藝術に国境はなく夢は世界を駆け巡る。文化国家を論じ口は

調法大法螺吹けど裾からボロが垂れ下がる。あきめくら千萬居るとも問題にあらず。心眼を開きて心の技による優れた独創の藝術を見出し、これを愛し育ててくださる目明き三人居ればよい 目明きを求めて・・・ 」とあります。  

 

白翁は以前より紫の色彩についてある疑問・拘泥を持ち続け研究を重ねておりました。それは紫の色彩が色あせ長期間保てないという事実を知ったからです。

漆に顔料を混ぜ、紫漆を整え使用した作品が、長期間で紫色が褪め易くなるという現実に触れ、如何にしてこれを乗り切るか探求しておりました。

漆自体は数千年の生命力があるのに比べ、中に入れる紫の顔料の変質で、色が飛んでしまったり、焼けた様な色になってしまう事に苦慮しておりました。

 

当時の白翁記に次なるものが残されております。「古代から紫色の魅力は金、銀、ダイヤ、真珠、珊瑚と共に珍重された色であった。色彩の中で朱、黄、青、紫と

発掘品の中での主位は紫であるかと思います。日本画、油絵、漆物等に昔から使用されて来ましたが、植物性から作られた顔料は美しいが、退色変色してその美を

保つ事が短命であります。今までの紫の顔料を使用し、作品を完成してきましたが、五年~十年で変化してしまいがっかりしました。そこである科学研究家と相談

して、不変の顔料を得て最良の漆に混入して紫漆を完成しました。植物性のものは変化しやすい。鉱物性のものは変化しない。日光の直射にも変化する事なし。

紫漆の藝術的作品と共に不変であります。昭和五十年完成せり・・・」と記されてあります。

 

また他の記に「さて紫の件につき、私は創作作家の立場上色々と研究しました。紫の色は昔から珍重され私も好きな色彩の一部であります。漆で紫漆をと思い三十年

ほど以前、顔料で紫を色々と求め漆に合わせ研究しておりましたが、良い色が出たものの五年~十年位して変色し、中には土色になってしまうのもある。

そこで鉱物性宝石の粉末にしたものを化学変化により得たものを使用せり」とあります。

 

また、少し期間のずれた記述に「以前に米国より帰国して六月、奈良の唐招提寺・森本長老に漆画の件でお話し申した折、紫のことに論争す。日本画、油絵、御衣にも紫が使用されているが、皆百年も経つと変色をするという事実。今までの紫色は、植物性であった事を知った経路を参考までに申し上げる。鉱物性の色素の中から紫色を抽出し、不変の紫を使用して紫漆を完成。それが私の紫であると・・・」

 

また紫に関する別の記に「天下を掴んだ王者は、全力を注いだ事は人間として当然の事なり。紫と金との配合は王者の風格也。藝術品に愛用される事も当然の欲望である。そしてその不変の美でなければならない。昔は貝から取った紫、今は鉱物から不変なる紫色の色素を取る。植物から取ったものは変化して土色に変わる。

独創の漆画の中で、新しく発見されたる紫漆の美しさを鑑賞あらん事を・・・極楽浄土は紫の色 ・・・」とあります。

 

考えてみますと白翁の持病である喘息は、白根町時代から悪くなっても良くなる事無く持続されており、既に固着症状として頻繁に現れ苦しめられておりました。

若い頃は入院に至るまではあまりなかったのでしたが、年を重ねるにつれ、入院の回数が増え始めておりました。それも肺気腫のうえに喘息発作を起こすことにより、気管支炎から肺炎にまで移行する事も多くなっておりました。

しかし制作途中で医師より入院を勧告され、仕方なく入院しましても制作の事が気になり、医師や看護婦の反対を押し切り中途退院をしてしまい、自宅アトリエで

制作続きに打ち込む事さえもありました。

妻はその都度、病院の担当医からの呼び出しで厳重に注意を受け、白翁との言い争いになるのですが、制作に没頭する白翁には何を伝えても通じませんでした。

やがては連続の咳、そして痰が多くなり出し呼吸も荒々しくなり苦しい表情でも尚、制作を続けているのでした。その痰が詰まると、呼吸不可となり死に繋がってしまう事さえあると、担当医師より注意されておりましたのに・・・。

 

その為自宅には、その時に対処する医療呼吸器具を備え、制作に入る時は顔面に付ける様にしておりました。それでも呼吸器官が狭まり苦しくなるので、

医師より勧められた気管拡張剤の「ネオヒリン」や「リンゲロン」を症状の酷い時、服用しながら、制作を続行しているのでした。

この薬を長期に渡り服用し続けると、骨が一部溶けてしまうとの副作用がありましたが、白翁のレントゲン写真には一部その兆候が既に現れておりました。

その為、肩が左右不均等に下がっており痩せた体で、息子によって作られた多量の硬いさび漆を用い漆画大作に挑む姿は、正に気迫に満ちた藝の鬼と化している様にも見えました。

 

昭和51年どうにか小康を得た後、昇仙峡に通い始めます。それは白翁乾漆硯では最大の長さ45㎝ 、幅30㎝、厚さ5㎝の大作に臨むためでありました。

白翁の記に「蓬莱の里」を求めて東奔西走、甲州の昇仙峡に遊ぶ。奇岩赤松多し。谷川のほとりを歩き、仙蛾滝を経て覚円峰の頂上に坐す。太陽は燦然と輝き霊峰富士を望む。正に蓬莱の里昇仙峡を愛す」とありますが、この全景を纏めて硯の表裏に乾漆へら芸の技術によって完成され、蓬莱の里」と題されております。

 

昔から各方面の良き愛蔵者に作品を納めていた割には、貧乏生活が相も変わらず続いておりましたが、それにはそれなりの理由が存在しておりました。

まず材料の高価なる大量の純日本漆(他国で取れた漆には混ぜ物が多いとの理由で絶対に使用しませんでした)や画材として使用する金、銀、青金、金銀箔、

各種作品に見合った手作りの額装(白翁とは長き心の通い合った達人芸の腕を持つ額職人が、白翁額装専属に付いておりました)等に多くの経費が掛かり過ぎました。

作品が納まり収入を得ると同時に(或いは入る以前に材料を大量に注文してしまう)その高価な材料をここぞとばかりに惜しむ事なく大量に使用、数々の制作に

没頭する事の繰り返しであり、少しでもイメージの異なった作品となると、全てをぶち壊しに始終しておりました。

本人は高価な材料との認識は全く念頭に入れておりませんでした。また制作の合間々に各地スケッチ巡りの反復、そして高価な美術参考資料漁りでありました 。

その為、昔から三人の子供の世話と、家計を受け持つ妻との衝突も若い頃は激しいものでありました。

 

白翁の気質を良く知る昔の友人で美術学校同期生が、以前、当時の一部を語っております。

「入山君は億万長者の子息という噂が有った程、当時から金や銀を惜しむ事なく使用し、また高価なる漆の未完成品を気に入らぬと、容赦なく打ち壊し次の制作に掛かるという姿勢を崩さなかった」と・・・。

また、「同期の仲間が自然誰とはなしに、その様に言うようになっていた事もあり、全く目先の利に迷わず、より以上の傑作を生み出す事にのみ、執念を燃やす性格の人であった」という事を聞いた事もありました。

継続する資金も滞りがちの中、制作に打ち込み、自身の健康の事すら意図せず活動を続ける源は 、何処から湧き起るのか昔から不思議でなりませんでした。

 

この頃の記に「海は近くに在りて岩を洗う。社会は我が身辺に在りて闘争の場なり。萬人みな闘士にして勝てる者のみが残る。弱肉強食の世相、悪は善を害すると言えども、善は常に悪を駆使す。萬人是を知りて尊敬す。聖なる苦闘は萬人の師たり。心の技こそ藝術最高の坐なり。 権力を最高とせず 財力を最高ともせず、

人間生活上の便法にして、人間最高の坐は悟りにして是に徹する事なり。この理を知らざるは俗人なり。悟りある人こそ最高の幸福者ならん。

人生哲学是以上はなし・・・」との白翁記があります。

 

昭和52年、東京セントラル美術館において、白翁30年間における全ての作品を展示する 「白翁懐古展」を開催。金胎象嵌蒔絵大型屏風類、及び、乾漆屏風類、

総梨子金胎菊高蒔絵宝石箪笥、平棗、中棗、乾漆香炉、香盆、乾漆壺類、金胎乾漆煙管四季十二本揃い、各号数による漆画、漆絵版画(麻地、絹地、和紙)、書、墨絵、掛け軸類、乾漆硯類、陶板硯類、引掻き手法による漆画(表裏側面全てさび漆で下地を施してある乾漆板を鏡の様に研ぎ整え、その上に上質の漆を薄く重ねて5回程塗る。塗る度毎に研ぎを入れ最終塗りの時には正に鏡の様に磨いておく。その表面に薄く色漆を延べ、竹を細く削った先の鋭端部分で絵画、文字、模様を筆の如く自由に駆使すると共に、引掻く様に切り込み表現して完成させる新たなる手法)その他多数の未発表作品が会場を網羅しました 。

 

当時の記に「宇宙自然の心と一と成りたる時、無我に徹し純なる時は菩薩なり。感激の閃くとき独創の藝は生きる。目先の欲望だけの者は豊なる心を失う事あり。

一時的流行の花形たらんとせば、世に持てはやされるともそれは煙の如し。高度の豊かにして安らかなる藝術は萬人の心の糧となる。不変の美は歴史に1ページを

飾る。作者はこの世を去るとも作品に魂は生き残り、それを愛する人に微笑み語らいかけ、永遠に生き続けるであろう。優れたる独創の藝術こそ菩薩なり。

永久不変の漆という材料に託して豊なる愛を萬人に捧げん・・・」と記されてあります。

 

八王子に窯を持つ著名な若き陶芸作家がいて、白翁とは知遇の中であり両アトリエを行き来しておりました。

時々八王子に出向き、壺や陶板硯となる原型の陶板、そして素描の数々を板上に表わした陶板を、様々に工夫を凝らし窯で制作しておりました。

陶板造りは陶板の上に漆画手法による《陶板乾漆画や陶板乾漆硯》を制作する試みであります。陶板硯は、その原点となる原型に墨池〈墨汁が貯まる所〉や形、厚み

などそれぞれの作品を考慮しながら硯台を制作。体力のない白翁にとって、既にこねられたものを自ら小さくこね直しておりました。

その土が陶板硯へと形を整え、壺や陶板と共に作品を焼入れしながら出来上がりを楽しく待つという事が、当時まだ続いておりました。

体力は弱まるばかりでこの頃は、小型硯が多く制作されておりました。

より選ばれた完成品のみを自宅に持ち帰り、アトリエで漆を幾度も塗り重ね、その都度乾燥させながら硯として、或いは陶板漆画に完成させておりました。

白翁硯は大小に関わりなく全て裏側に画面を持っておりますので、硯の裏側にさび漆を厚く延べ、生の内に絵画、文字、模様などをその各々硯の性格に合わせてヘラで切り込み表現して行き、指で彩色を重ね完成していきました。

〈硯を磨り、書をしたためた後、裏を返して心静かに鑑賞するも良し〉との言葉は白翁硯に関する作者の決まり文句でもありました。毎日の漆画制作の合間(漆の完全乾燥する数日から~数週間位)を利用しての陶芸作業でありました。

白翁の芸術活動の休止している時は入院時か、トイレか食事中、そして就寝中である ・・・と取材中の記者に家族がそう話した事もあった程でした。

 

白翁が乗り物に座する時ですら、絶えず指先を空間で動かし何かのデッサンを描いたり、書の流れを繰り返し研究、無限の空間で書体を綴っておりました。

しかし就寝中、突然起き上がり夢で見た内容を忘れぬ内に作品にして表したいと、夜中に起き上がり、制作準備を始めだし妻に叱られたりしておりましたので、

芸術活動の完全休止項目の中には、就寝中は入らぬ事となってしまいます。

硯制作の中に自然木を使用した事もかなりありました。

 

ある時息子を連れ長野山林にスケッチ旅行をした折、偶然、きこりが白樺を切り出している場面に出会いました。白翁が近づき次々と伐採してしまう理由を聞き出し、「樹木には尊い生命が宿り、年々成育を続けていく生命体をその様な理由で、必要以上伐採する事は可哀想だ・・・ 」と意見をしたものでした。

そして切り出してあった樹木の中より硯に使用できる樹木を選びだし、代金を支払って買い取り、幾種に渡り厚さやサイズを指定し、それを輪切にしてアトリエに

送って欲しい旨を伝えました。

そしてきこりに「この白樺は幾歳月に渡り、乾漆硯として再び現世で生命を与えて見せましょう」 と伝えたのでした。

当時の記に「白樺の丸太を切り、側面に白樺の木肌を生かして乾漆硯となす。表と裏は麻布を漆で張り固めて、乾漆造りの技法にて完成す。〈白樺台乾漆硯〉と命名す・・・」とあります。

 

昭和53年に大観記念館の招きにより「不変の生命力を持つ漆の歴史と独創の漆画などについて」と題して講演を致しました。当日は、漆画の他に大小の乾漆硯を

多数持参して実際に墨を磨り、書画を描いて実演も致しました。

その講演の折、昭和6年白翁が美校3年の時に大観先生の愛蔵品として納めた、懐かしい「乾漆盆」を実際に手にとり見せていただきました。

「当時お納めした時と全く変化のない美しさを保っている我が作品に、自身感慨深く無言で鑑賞しつつ、また、改めて自信と誇りを持つ・・・」という記述を残しております。

 

昭和56年7月、長方形乾漆硯【紅梅】が皇后陛下に納められました。

硯表側は墨池をまたぐ様に満開紅梅が描かれており、また硯裏側には紫漆上に古木梅が漆画手法で描かれております。

 

昭和57年、渋谷松涛美術館招待出品で漆画「赤富士」を出品。当時の記述に「思えば有田八郎先生の別荘が山中湖畔にあり、先生の生存中はよくそこで寝食を共にしておりましたが、晩夏から初秋にかけての早朝、雲や霧と朝日との関係でそれは見事の赤富士が出現。その折、先生が明け方早く私を起こし【今、赤富士に成っておるから参考に見よ】との事で実に立派な赤富士に幾度か遭遇し、その印象を漆画の「赤富士」として多数残す事が出来た」と記してありました。

松涛美術館での記述には「自然の風物を愛しこれと語る。わが故郷は日本、富士は日本人の心の故郷、富士を愛す。富士山麓に通う事三十有余年、自然風物 巨木礼讃それを求めて東奔西走。漆画に表現して久し」と記しました。

日本人で一番深い関わりを持つ樹種は桜であると言うことで、桜の作品もかなり制作されておりましたが、出品作品を漆画30号「神代桜」と交換したという記録が

残されております。

自然風物を愛した白翁の作品の中には、各地の景勝地やそこに点在する巨木を表現した作品も数多く残されております。

(銀杏、 松、檜、藤、柏槙(びゃくしん)(ヒノキ科のイブキの別名)・らくうしょう(ヌマスギの別名)、菩提樹、臥龍梅、白梅、紅梅、葡萄 、柿、石榴(ざくろ)、薄墨桜、神代桜)等の作品があります。

また、巨木を扱った中には珊瑚をはめ込んだ作品もあります。それは漆画三十号を始めとした各号数の「巨木礼讃」であります。

 

白翁記に「巨木を求めて各地を巡る、数千年も生き抜きし柏槙の巨木あり。天を払うが如し。細かく観察スケッチに納む。長き歴史を生き抜いた巨木には霊気が漂う。心静かに樹木と語る。樹霊が現れ喜びと感謝、飛んだり跳ねたり幻想の世界。踊り舞う樹精を珊瑚で彫刻、漆画「柏槙の巨木」や「巨木礼讃」の中にはめ込んだ作品であります・・・」との書付けがあります。

 

また、別の記述に「藝術とはなにか、心に描く美しき夢の表現である。夢の中に素晴らしき感激を求めて表現する。空想、理想、現実、夢とを織り交ぜて美化する。

それが藝術の世界である。正しき思想と哲学・・・夢あり。大胆に独創の藝を主張す。日本画なるが故に、油絵なるが故に、工藝なるが故にあらず。

広き視野に立ち美術の世界に於いて心眼を開きて、心静かに鑑賞すべきである」とあります。

 

瀬戸内海に浮かぶ小豆島にも巨木を求め行っております。宝生院の柏槙は根元の周囲が16 .6メートル地上1メートルのところで巨幹は三つの方向に分かれております。樹齢1,500年以上経ち、巨幹には幾筋の窪みがあり、その窪みに沿う様に苔が青々と育ち、神格化された老樹であります。柏槙はなかなか大きくなりません。

その樹木が巨木と化するまで修行を積むことこそ「禅」の本領とする事に白翁は共鳴したのかもしれません。鎌倉建長寺の柏槙(柏槙の古木が二列に植えられており

全部で7本、樹齢650年~700年と伝えられております)も作品にしております。

 

また、江戸川区東小岩の善養寺にある影向の松(よううごうのまつ)も数点大型作品にしております。東西の枝の長さ30メートル、南北28メートルに及ぶこの這松は、繁茂面積では日本一と言われ、樹齢は約600年で東京都の天然記念物に指定されております。「影向」とは神仏が姿を現すと言う仏教語との事です。

 

 

白翁藝道(第七期)

 

 

昭和57年4月 白翁78歳の折、アメリカ・カリフォルニア州・パサデナ市「パシフィック・エージア美術館」において長期漆画展を開催します。

この期間は体調が比較的安定しておりましたので医師より許可が得られました。

ロサンゼルスの羅府新報(らふしんぽう)に白翁芸道記事が報ぜられ「火の玉のような人物であり、奇跡的でもある「漆画」であると称するも過言ではない。

しかも豊かなる思想と哲学の持ち主であり 、風格ある作品を纏めて居られる事にいたく感激した」と絶賛されておりました。

また、他紙報道(ロサンゼルス・タイムス、共同通信、長崎新聞)では年齢78歳の童子と自称する白翁が、 自製の乾漆硯に七彩に変化するという墨を磨り、和紙に筆を振るうと取り巻いた人達の間から歓声が漏れる。「極楽にお酒あるかと聞いてみた あるぞよそれは般若湯」などと書く文体を通訳する言葉は外国人にとり、

まるで判じものだが、それでも有難がって求める人達が多かった」と報ぜられておりました。

 

漆画展開催中に、ハリウッド・ユナイテッドテレビに出演し、大いに我が藝道を語り伝えたのでした。この出演後にボストン美術館など8箇所を回り、

グランドキャニオン、ヨセミテ渓谷、ナイヤガラの滝などスケッチを繰り返し、次期制作の準備に入っておりました。(この作品は後、完成をさせております)

日本文化財漆協会会長・伊藤清三先生いわく「白翁は不可能かと思われし事を堂々と完成しておられ、正に火の玉に比喩される様な人物であり奇跡的漆画である。

作品には思想と哲学があり漆芸術は本格的である。彼は萬芸の人でもあり、創作は余技でなく全て本技である。新しき美術史に1ページを飾る作家であると確信する。氏の信念、黙々として我が道を行く独創の漆画家白翁を推薦す」と絶賛されたのでした。

 

このパサデナ漆画展の間、当地において突然の呼吸困難や発作が連続し、現地の病院ではカルテがなく受け付けてもらえず、緊急で日本の病院(国立医療センター)

より応急処置の薬が航空便で送られ、どうにか難を免れたのでした。

年を重ねる毎に白翁の制作活動の間にも、何時も生死に関わる病魔が確実に忍び寄る様になっておりました。

 

当時の記に「人生は真実以外に語るもの無し 藝は人なり 心の技こそ藝術の本文なり 永遠の生命ある作品こそ愛すべし 藝術に国境無く名作に古代も現代も無し 秀いでた名作は萬人の心の糧なり その真価は心眼を開きて鑑賞あるべし 自ずから知るもの 一藝を極むれば萬藝に通ず 過去に於いてこれを実行せる作家は多々

あれども、私は本阿弥光悦を尊敬し、それ以上の作品を完成する事が一生の念願であり、後世に残る作品を制作する事である 。それ以外に何も無し」とあります。

 

その事につき別記には「私は過去の作家や作品を色々と研究しまして、東西古今を通じて本阿弥光悦と言う人を一番尊敬しております。どれ一つとっても超一流であります。光悦が正宗の名刀について言った言葉がありますが、私にとって富士は霊峰にして犯すべからざるものありとして、その名刀の気品を富士になぞらえて論じたのであります。そこで私は富士の真髄を捉えて、そこに魂を打ち込んだならば勝負出来ると信じたく、今もそう信じております。本阿弥光悦は萬芸の達人、

学ぶべきである。本格的藝術に流行はない」と記してあります 。

 

昭和五十九年東京富士美術館で「富士の名画特別展」が開催され、室町時代の宋元伝来による水墨画法で描かれた富士を始めとして、桃山、江戸時代の狩野派、琳派、文人画(南画)、洋風画浮世絵などを経て、明治以降から現代に至る代表的な富士山画130点が一堂に展示されました。

500年に渡る富士絵の流れを一堂に展観され雪舟、是庵、俵屋宗達から始まり尾形光琳、池大雅、橋本雅邦、横山大観・・・・とまだまだ羅列陳列されている最後部に白翁の漆画70号「暁の富士」が飾られておりました。

金銀の流れる雲海の中より、光り輝く朱地漆の大写し富士が出現した壮大の構図が、一段と会場を引き締めて見えました。

しかし、この大切な期間の真っただ中に、 ウイルスや細菌の感染により気管支炎が悪化し、発熱、悪寒、など喘息症状が続き、血痰も現れて、遂には肺炎を併発して呼吸困難に陥り、国立医療センターに緊急入院をすることになりました。

 

病室での白翁は、富士美術館で現代に至るまでの代表的富士展示に、我が魂が選ばれた事実をこの上なく喜びながらも、寂しく療養を続けざるを得ませんでした。

ベッドで静かに詩文や随筆を重ねる姿は、端から見ただけでは悠然として寂しさは微塵も感ぜず、満足しきった姿に映るのでした。

見舞いに来る人達は皆安心して帰りましたが、白翁苦心の作である「暁の富士70号」が、偉大なる先達の作品と共に展示されたこの好機な期間中に、ただの一度も会場に出向けず動くにも動けぬ作者自身の心身苦悶が、家族には手に取る様に伝わってきておりました。

 

病室での記に「坐禅して我が作愛し日の暮るる 誇りもて藝は人の糧なるを 漆なる技生き抜く我は 楽しくもあるかな 藝術花は四季に咲きて散る事ぞなし・・・」とありました。

長き病院での静養加療のお陰をもち、自宅にようやく戻る事が出来ましたが、暫くは自宅静養が続き、その時の記が残されております。

「風邪をこじらせ肺炎を起こし一時生死をさまよう。退院静養中あるも今だ体調宜しからず。追憶の日々を過す。独創の漆画を愛し、これを見出し、育てて下さる御仁は世を去りて姿無し。作品は完成せるも、世に紹介する機会あまり無し。生活意の如くならず、病床にありて静養中、静かに思う事あり。

過去80有余年の苦闘の日々を・・・」とありました。

制作に生き甲斐を持つ本人として静かに横臥を続ける事が辛く、もういても立ってもいられず、やがて少しずつ制作の準備をまた始めだし、徐々にではありますが

制作開始を始めるのでした。

 

この頃の記に「口の車に乗るなかれ、火の車に苦しむ事なり 心眼開きて観ずれば善悪を知るべし 優曇華の花を観る 三千年に一度しか咲かぬという法華経の根本を学び、心眼自ずから開く 佛法の奥儀ありとせば、これ神通力なり 諸佛の智を得て藝道自ずから輝く 一本の線に哲理の働きあり 神秘の力を生ず 藝道また宗教なり」とあります。

 

また別の記に「菩提樹の下 佛の座に坐し 道を求め諸佛の智を得て禅定藝道に徹すれば 自ずから菩薩たり 一本の竹べらに光明を見出す。無我修行の根本自然真理を掴む 心の技こそ藝道精神なり。天上天下唯我独尊 創作に誇りを持つべし」とありました。

 

昭和61年、長年の白翁作品コレクターであったお方を通じて、白翁美術の熱心なる愛好家が紹介されました。その方のご主人が鉄工所を経営され、その環境の中で奥様は楽しみであった芸術に心を打ち込み、ゆくゆくは自分で画廊を開きたいと念じ、各方面に扱うべき作品を模索しておりました。

ある奇縁により白翁作品コレクターと知り合い、その方の所蔵する幾種の白翁作品をご覧になった奥様が、長年捜し求めていた芸術品こそがこれであると、その出会いの喜びをコレクターに語った事から話が進み、是非、白翁先生に対面の便宜を・・・と切望し、ご主人と奥様と妹さん、そして親戚の女性の4人がお揃いで我が家に

おいでになりました。

アトリエで各種色々と作品鑑賞をされ、「私達の希望は、白翁作品を画廊一杯に飾り、四人で先生の魂とお心を伝えて行きたいと願っておりますが、先生のご意見を

是非お聞きかせ頂きたく伺いました」と申されたのでした。

皆さんがお見えになられた時、白翁は入院中で不在でしたが、息子である私が「責任を持って貴方達の意思を父にお伝えし、父の意見を私からあなた方へお伝えします」と約束したのでした。後方、私はその伝言を父に伝えることに苦慮してしまいました。

 

白翁は昔から画商を嫌っておりまして、実はたまたま数年前に、白翁が尊敬しておりましたある美術関係重鎮より画商を紹介されたのですが、しかし後になりその画商に傑作作品を多量に詐欺されたことを警察から知らされ、白翁は大ショックを受けている最中だったからです。

以前より白翁が語っていた事は「画商は、作家の研究、努力、苦労等に心を配る事なく、口先のみで己の利を得らんが為の便法を用い、勝手に値を釣り上げ、あるいは極端に値を下げたりして、自分の意のままに行為行動し我利のみに走る人物多し。作家には生活はおろかこの先制作、研究を重ねて行く事が難しい程の金額を示す輩が実に多い。中には作家の感覚や表現、手段までをいちいち指示始め、早く納まりやすい作品、長期制作を要さぬ作品をと指図し出す者もおり、作者の意思をないがしろにする画商も実に多かった。私は画商を一切必要としない」と常々申しておりました。

 

また、別記に「芸術家は誇り高き自信のある作品、芸術至上主義の下に優れたる独創の漆画を完成せんと努力す。売り込み商人は、売れ易い利益を第一に取り扱う事に力を注ぐ。宣伝上手なれど汚れた塵は掃き清めるべし。ダイヤと砂利は区別して論すべし。自信と誇りを持って大胆に実行すべし。

明きめくら無能愚輩となる事なかれ。見せても説明してもどうも分からぬ人に何も言う事無し」とありました。

前述の通り、白翁が尊敬する美術関係重鎮の勧めであるがために、白翁は意思に反しながらもその意を尊重して画商を入れたのでしたが、結果は以前から危惧していた通りになったのでした。

 

白翁に画商を紹介した先生は「腕は良い人と思ったけれど、その様な人間とは思われなかった」と、軽いお話で終わってしまいましたが、白翁が尊敬していたお方だっただけに、心の奥に自分の思いを留めることにしたのでした。

暗澹なる入院加療中の中で加えて諸々の煩雑事で傷心の癒えぬ本人に、4人の方達の画廊話はとても切り出しにくいものでした。頑固一徹、己の意思の通り生き抜いて来た白翁には息子の目から見て 、父でなく師匠の感覚でありましたので、畏れ多く言い出しにくく、恐らく烈火のごとく怒り出し、雷が落ちてくるものと覚悟しながらも、静かにその経過を順序良く伝えたのでした。

ベッド上に姿勢良く上体を起こし、目を閉じながらもじっと聞いておりましたが、暫く間を置き「その人達をここに通しなさい 話を聞こう」との返事が返ってきました。 

白翁には何かその方達の心が通じたのでしょうか。後日、約束の日にその方達をお連れして病室に行きました。皆さんは、自分達のこれから活動しようとする希望、夢そして白翁芸術への確固たる心情や考えを一心に述べ続けました。

「売る売らんではなく、先生の絵画を通じ、画廊に集まってくる人達の和やかな心の触れ合い、そして、そこで起こるご縁を大切に先生のお心を私達が伝えていきたい」と申されました。

白翁は言下に「良かろう」と承認をした上、画廊の名前を「洗心洞(せんしんどう)」と名づけたのでした。奥様が感激し涙を流され、白翁の手をしっかり両手で包まれていた姿が今でも思い出されます 。

洗心洞は、漆画100号の「太陽は燦然と輝く」を購入され、画廊正面に飾られたのでした。

 

白翁は、激しく入退院を繰り返す以前より、絶えず手掛けていた生涯の目標であった100号漆画による「地上天国の12枚連作」を昭和40年着手、

そして昭和56年に完成させており、洗心洞画廊の壁面を飾る「太陽は燦然と輝く」はその中の一点)であります。

白翁の漆芸術人生の結集ともいえる自然風物を表わした連作であり、富士山、太陽、各種の巨木、大渦潮等を含めたこの100号12枚連作を一堂に飾ってもらいたいと

白翁は念願しておりましたが、あまりの巨大の連作であるために、まず納めるスペースの問題、そして高額になる金額も踏まえ、12枚連作作品一挙の購入者は見つかりませんでした。

しかし、この12枚連作の中の100号「葡萄 」と「神代桜」は、ある会社に納まり、「太陽は燦然と輝く」は洗心洞にと納まったのでした。

 

「太陽は燦然と輝く」は、大画面の中に朱漆で大きく表現された太陽が、生い茂る木々の中から今まさにゆったりと昇る悠然たる構図で、空には朱と金色の瑞雲が

流れ、画面下部一杯に表現されている唐松林全体を金、青金、銀、黄の漂うもやの中に茜雲が一筋二筋と流れている優れた出来栄えの作品でありました。

 

その後も病院での療養は続きましたが、やがて一時的でもありますが退院を許され自宅療養を続けておりました。ベッド横には、常に白翁硯が置かれ、

具合の良い日は上体を起こして書を楽しんでおりました。

その中には巻紙に延々と書き表わしたものも多く残されております。

「天地自然の法則を知りて、人間本来の心の幸福を得よと説かれし釈迦の法華経はそれを教えている。禅の哲理の根本は目先の小事にあらず。宇宙の大局の中に己を

知ることなり。権力、財力、幸福は各人希望する事なれど、その力に限度あり。日々最大の努力をし、現われたる結果を感謝しつつまた努力すべし。

これ一日の行事なり。また私自身の自己問答でもあり修行目的でもある。これを実行悔いなき人生こそ最高の坐なり。

藝は深く追求せば、禅の哲理と共鳴するものがある。大宇宙の自然法則の中に、存在する真理を掴む事により、藝術の進歩があり創作が生まれる。

過去三千年の歴史の中に、様々の藝術が育んで来た中で、それを一通りに体得研究し、これを踏まえての創作は、過去にもその例のなきものなれば、

歴史の1ページを飾るべきである。孤高の独創に誇りを持ち、妥協する事なく堂々と主張す」とあります。

 

白翁の病症は遡りますが、昭和60年以降益々体調が崩れやすくなっており、発作呼吸困難が朝といわず昼夜問わず、頻繁に起こり病院往復が激しくなっておりました。

本人と共に付き添う家族の疲労も激しくなり出し、遂には同時に病に伏してしまう事すら度々重なって来る事もありました。入院を希望しましても通例通り急には病室が取れず、焦る気持ちで病室空きを待ちその間中、自宅療養を続けながら病室が確保されるまで、待機しなければなりませんでした。

発作の起こる時には緊急用の服薬でその場を凌ぎながらも、とにかく待つしか手立てはありませんでした。

この状態が続きますと、まず家族から心痛と過労で次々伏してしまい、色々と考えた挙句国立医療センター際のマンション一室を借り、そこを「白翁療養所」とする事に決めました。

部屋の中に緊急時の医療器具を買い揃えたり、自宅より使い慣れた医療器具を持運び設置しました。その事により夜中でもすぐに、病院で緊急治療を受ける事が可能となり、治療が終われば病院横療養所にすぐ戻れる様にしたのでした。

看護派遣所を通じ、初老の元看護婦二人を頼み、付き添い人として交互で24時間 体制で白翁に付いてもらいました。

序々ではありますが部屋の中には、病院で使用している同類の小型医療器具類も数多く揃え万全を期しました。付き添い交互での生活が続き、安定感も出てきてようやく体調も落ち着き、白翁の容態は大分安定が見られる様になっていきました。

体調がどうにか落ち着きだしますと、またしても白翁の芸術虫が落ち着かなくなり出しました。

この療養所に制作に関する材料、道具類を運んできて欲しいと頼むのでした。

担当医に知れますと厳重に注意される事を承知の上、こっそり少しずつ持って行く事に決めたのでした。制約漬けの生活であまりに可哀想になり、好きな事をさせてあげたく、負担の掛らぬ小さいものから密かに運んでおりました。

比較的調子の良い日はベッドより起き上がり、ゆっくり時間を掛けながら楽しそうに小品を無心で制作しているのでした。

 

昭和63年、八王子の住友海上火災ホールで漆画展を開催しましたけれど、当然の事ながら白翁は今回も会場には行けず、会期中の内容は家族の説明を黙って頷いて聞いておりました。この頃の体調は一進二退というべきか、退くほうが多く入院生活も度々でありました。

病室が空いて入院はできても、他の多くの病人待ちの為、長く入院する事がなかなか難しく、やがて退院を余儀なくされ、すぐ近くの療養所に移動したりしておりました。

暫くして発作で手に負えなくなると、再度入院の手続きをし、緊急用の薬で対応しながら病室が空くのを、首を長くして待ち、それから入院という状態の繰り返しが

依然として続いておりました。

退院して療養所で静かに静養をしておりましても、ひっきりなしの咳や発作は現れておりました。しかしその合間をベッドで半身を起こして書を書いたり、

草案に耽ったり随筆を書いたりしながらも尚、次期制作案を盛んに練っておりました。

家族としましては、もう制作は無理である事を医師に聞かずとも薄々分かって来ておりました。それだけに、白翁の1日また1日を無駄にせず邁進続ける姿を見るのがとても辛く、どうする事も出来ませんでした。

付添い人に毎日の様に自分の藝術に対する考えや、これからの活躍に対する夢などをベッドの中より時間の経つのも忘れて、とうとうと話し続ける姿は侘しく、

耐え難い苦しみにさえ感じてしまうのでした。

 

また、時々自宅に戻りたい事を伝えるようにもなりましたが、それはとても無理の願いだったのです。なぜならば、もし、自宅で緊急事態が発生した場合、緊急時用の医療器具類は全て療養所に設置してあり、緊急時は手の打ちようがなくなってしまうからです。

よほどの事でないと自宅に帰れぬ事は、百も承知の上で言っているのですが、白翁の心中全てが通じてしまう家族に取りましては、それは、とても辛くやるせないものでした。

この頃になりますと、療養所で完全の医療器具を揃えてあっても、また頓服を服用しましてもどうにもならぬ発作が、突然襲い掛かる様になっておりました。

息苦しくもがく姿で最早これが最後かと慌てふためき、付き添い人に緊急で病院連絡させたりしながらも、気が動転してしまい、どの様に処置して急場を凌ぐか、

普段、練習していた事などすっかり忘れ、気の抜けたようにへたってしまう事も度々でした。急な症状があまりに頻繁に続くので担当医の計らいで、

緊急に病室を優先的に空けてくださり、療養所から病室へと移動しました。

私は一日の仕事を終えると、毎日病室へ行くのが日課でしたが、付添い人から「息子さんの来るのを子供の様に、まだかまだかと何回もお尋ねされます」という事を

幾度も聞かされる度、人恋しがる姿なぞ一度たりとも見せなかった白翁の姿が、とても愛おしく思えてくるのでした。最早そこには白翁でなく本来の父の姿、

そのものでありました。

 

ある日ベッドの中より父が初めて私に言った言葉があります。「皆に世話を掛けたな・・・感謝をしている・・・お母さんを頼むぞ・・・」と伝える父の言葉が、

まさかこれが最後の言葉になってしまう事なぞとは思いたくもなく、まともに言葉も受け取る事が出来ませんでした。

「何を言っているの・・・まだまだやり残している事が多いと言っているくせに余計な事を考えずに早く良くなる努力を続け、次期創案を練り上げなければ・・・」

と言えたのが精一杯でありました。

その後、暫く病院生活が続き一時的にもどうにかこうにか小康状態を保つ事が出来ておりました。

 

その頃の記に「我この世から消え去るとも、白翁は死ぬ事無し。独創の漆画の中に生き続け、萬人の心の糧となる。漆芸術三千年 不変の誇りあり。君が死んだら墓へは埋めぬ、焼いて粉(こ)にしてお茶で飲む。私死んだら墓へは行かぬ、独創の自作の中で生き抜いて 、萬人の心の糧となる。激しき修行の道を八十余年、

悟りの道の一端。誇りと自信、漆藝に喜びを感じ、歴史の1ページを飾る。悔いなき人生に幸あり。佛陀の絶対慈悲あり、我が藝を愛す」と乱れた書体で残されておりました。

その後発作や小康を続けていきましたが、最早この頃になりますと書き上げる書は全てミミズが這っている文字であり、あれ程の名筆と仰がれた筆致はもう何処にもありませんでした。

それでも自分の藝道に関して、哲学に通ずる思想は同じ文章でしっかりと綴ってありました。

 

平成3年、病室と療養所の通いが続いておりましたが、日増しに衰退が激しくなっていきました。ある日突然、様態が悪化して夜中に集中治療室に運ばれました。

白翁の体中がパイプで繋がれ、静かに横たわっている姿にどうしようもなく声も出ませんでした。

数日経ち、それでもその状態のまま病室に戻れる事が出来ました。しかし、ただ、小さく呼吸しているのみで身動き一つなくベッドに横臥しているだけの状態で、

身体中のパイプはそのまま、意識は依然として戻る事はありませんでした。

付き添い人と家族が絶えず言葉を掛けるも、とうとう返答を聞くことはありませんでした。あの気迫に満ちた語り口で時間が経つことすら忘れ、藝道を語り続けていた父は何処へ行ってしまったのか・・・数日間は点滴のみで生命を繋いでいる身となっておりました。

枕元の硯も筆もペンもノートも手付かずのまま残されており、儚い人生の無情さに言葉なく俯くのみでした。

 

平成3年11月11日 昨晩からの急変で医師達が寝ずの治療を繰り返していた甲斐もなく、早朝静かに息を引き取りました。

享年87歳でありました。望み多き半ばで次から次へと消える事のなかった白翁の夢、そして願望は本日を持って永遠に打ち消されてしまいました。

多くの患いの中で白翁藝道に邁進続けた父に心から崇拝の念を持ち、静かに合掌を致しました。

私は、藝道一筋に生き抜いた父の申していた通り、白翁は永遠に自作の中に生き続けて行くものと確信をしたのでした。

 

 

漆ひとすじ入山白翁の生涯

第二部

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